第一章 三一の神は奥義である/第一章 参考文献

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第一章 参考文献

三一の神の奥義(補足参考文献)

 神の御言にある三一の神に関する啓示を体系化することは、必要でも有益でもありません。それは手続きにおいても結果においても不完全で逸脱しているからです。神聖な三一の真理に関する健全で健康的な方法は、神の御言における完全で神聖な啓示を適用し、命の答えとして神によって与えられた霊的知恵と理解力にしたがって更新された思いをもって、この啓示を把握し(コロサイ1:9)、神の永遠の目的の遂行のために、わたしたちの再生した霊の中でこの啓示を生かし出すことです(エペソ3:9–11)

(ロン・カンガス「三一論の逸脱の源」,「肯定と否定」第一号『三一の神を認識する』,61-62)

 三神論は三人の神を信じます。そのような信仰は、父と子と霊の区別があまりに遠く離れ、「パースン」という言葉は、三一の三に関連して漠然と不正確に使われています。三神論という形は、ヨハネス・フィロポナス(Johannes Philoponus)の教えの中で現われました。彼は父と子と霊に区別がある事を極端に強調し、神格の一つの共通の本質に三つの本質があると主張しました(R.S.フランクス、「The Doctrine of the Trinity」三一の狭義、119ページ)。神には三つのパースンがあると教え、あるいは、父と子と霊に区別があるだけでなく、「分離している」と教え、あるいは、神格は三人の個々のメンバーより成る一つの家族であると教える人たちが明らかにしているだけでなく、今日も三神論で同じ形態があります。E.カルバン・ベイスナーは、現代の三神論的傾向の例証を提供し、彼は「三人の個人から成るひとりの神である」と言います(「God in Three Persons」三人のパースンにおける神、24ページ)。もう一つの例証は以下のとおりです。「神格には三人の分離した別個のパースンがあります」(パウロ・E.リトル、「Know What You Believe」あなたが信じることを知る、32ページ)。父と子と霊が「個々」であり、あるいは、彼らが「分離」しているというのは、「分ける、あるいは別にしておく」または「独立した実体として存在する」(American Heritage Dictionary)という意味です。それは神聖な啓示を越えて、三一の三神論的教義に危険なほど近いものです。多くの人は、教理的に三神論者でなくても心では三神論者です。「心で三神論の間違いを育てる」人たちについて、スチュアート・オリオットは言います、「多くのクリスチャンは、神がひとりであるというより心の中では三人であると思う傾向にあります」(「The Three Are One」三は一である、87ページ)。三神論といえば、すべて聖書によって罪定めされます。聖書は、明らかに神が唯一無二であることを強調し、繰り返し告げています。

(ロン・カンガス「三一論の逸脱の源」,「肯定と否定」第一号『三一の神を認識する』,72-73)

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