三一の神・目次>第十二章 三一の神の分与の究極的完成
1. 七つの金の燭台
啓示録1:12 わたしは、わたしに語りかけたその声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台を見た。
1:20 あなたがわたしの右の手に見た七つの星と、七つの金の燭台の奥義はこうである。七つの星は七つの召会の使者たちであり、七つの燭台は七つの召会である。
歴代、燭台の意義の深みに触れたクリスチャンはほとんどいません。このメッセージでは、燭台という問題の深みを探らなければなりません。聖書の象徴は、理解するのが難しいです。なぜなら、わたしたちは、天然の観念によって燭台のような表徴を理解することはできないからです。わたしたちの天然の理解によれば、燭台はともし火を支えて暗やみに輝く一つの物体にすぎません。出エジプト記第二五章の燭台は純金です。ゼカリヤ書第四章と啓示録の燭台もやはり金です。実質的に燭台は金です。燭台について、わたしたちは三つの重要な事を見ます。それは金と台とともし火です。燭台は三一の神の意義を含んでいます。金は燭台が造られている物質であり、台は金の具体化であり、ともし火は台の表現です。金は本質としての御父を表徴し、台は御父の具体化としての御子を表徴し、ともし火は御子による御父の表現としてのその霊を表徴します。ですから、三一の神の意義が、燭台の中に暗示されているのです。
(ウイットネス・リー, ウィットネス・リー, 新約ライフスタディ 啓示録(一), 129-130)
出エジプト記第二五章での強調点は台にあります。ゼカリヤ書第四章での強調点はともし火です。啓示録第一章での強調点は再生産にあります。出エジプト記とゼカリヤ書のいずれも燭台は一つですが、啓示録では再生産されて七つになりました。まず出エジプト記での強調点は台、すなわち、キリストにあります。第二にゼカリヤ書での強調点はともし火、すなわち、その霊にあります。最後に啓示録では、台とともし火の両方、すなわち、キリストとその霊が諸召会として再生産されています。出エジプト記とゼカリヤ書では、ただ七つのともし火があるだけです。しかしここの啓示録では、四十九のともし火があります。なぜなら、すべての燭台に、七つのともし火があるからです。ですから、一つの燭台は七つとなり、七つのともし火は四十九となりました。啓示録のともし火を持った燭台は、キリ子とその霊の再生産です。キリストが実際化される時、彼はその霊です。その霊が実際化される時、再生産として諸召会があります。
召会は宇宙的に一つであるだけでなく、地方で、多くの都市で表現されます。全宇宙にはただひとりのキリスト、ひとりの霊、一つの召会があるだけです。それでは、なぜ七つの召会があるのでしょうか?なぜなら、表現のために必要であるからです。実在のためには一つで十分です。しかし表現のためには多くが必要です。召会を知りたいなら、その実質、実在、表現を知らなければなりません。実際上、召会はすべての諸召会でさえ一つです。表現では、多くの召会は多くの燭台です。召会とは何でしょうか? 召会は三一の神の表現です。そしてこの表現は、地上の多くの地方で見られます。召会は一つの燭台だけで表徴されるのではなく、七つの燭台で表徴されます。啓示録第一章には、宇宙に輝く四十九のともし火を持つ七つの燭台があります。これはイエスの証しです。召会はイエスの証しです。これは、召会が実際上、また表現上、三一の神の表現であることを意味します。実際上、それは全宇宙に一つの実在物です。表現では、暗やみに輝いて三一の神を表現するともし火を持った多くの燭台です。本質としての御父は御子によって具体化され、具体化としての御子はその霊によって表現され、その霊は諸召会として完全に表現され、再生産されます。そして諸召会はイエスの証しです。このビジョンを見るなら、わたしたちはそれによって支配され、決して分裂することはないでしょう。このビジョンは、イエスの証しの中にわたしたちを捕らえ、守り、保つでしょう。
燭台は神が彼の動きによって、目的を成就するために実際の形となって具体化された神聖な金であることを、わたしたちは見てきました。台の表現は、その光の輝きにあります。その表現が輝く時、その輝きが神の永遠の目的を成就します。ですから、燭台は三一の神を表徴するだけでなく、その具体化と表現による三一の神の動きをも表徴します。わたしたちは、地方召会は暗い夜に輝く燭台であると言って満足すべきではありません。これは正しいのですが、どちらかと言うと浅薄です。わたしたちは、地方召会は三一の神の具体化と表現の再生産であることを見なければなりません。
(ウィットネス・リー, 新約ライフスタディ 啓示録(一), 132-134)
2. ぶどうの木と枝
ヨハネ福15:01 「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫である。
15:02 わたしにある枝で実を結ばないものはすべて、彼は取り去られる.そして実を結ぶ枝はすべて、もっと実を結ぶようにと、彼は手入れされる。
15:03 わたしがあなたがたに語った言のゆえに、あなたがたはすでに清いのである。15:04 わたしの中に住んでいなさい.そうすれば、わたしもあなたがたの中に住む。枝がぶどうの木の中に住んでいなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしの中に住んでいなければ、実を結ぶことはできない。
15:05 わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。人がわたしの中に住んでおり、わたしもその人の中に住んでいるなら、その人は多くの実を結ぶ.わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからである。
15:06 わたしの中に住んでいない者は、枝のように投げ捨てられて枯れてしまう.人々はそれを集めて、火の中に投げ込むので、それは焼かれる。
15:07 あなたがたがわたしの中に住んでおり、わたしの言葉があなたがたの中に住んでいるなら、何でも望むものを求めなさい.そうすれば、それはあなたがたにかなえられる。
15:08 あなたがたが多くの実を結ぶことで、わたしの父は栄光を受けられ、こうしてあなたがたはわたしの弟子となる。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない.むしろ、わたしがあなたがたを選んだのである.そしてあなたがたを立てた.それは、あなたがたが出て行って実を結び、あなたがたの実が残るためであり、あなたがたがわたしの名の中で父に求めるものは何でも、彼があなたがたに与えてくださるためである。
神聖な分与における三一の神の有機体
ぶどうの木とその枝は、神聖な分与における三一の神の有機体です。ある日、主はわたもに、このぶどうの木は宇宙における唯一の有機体であることを、はっきりと見せてくださいました。第十五章にあるぶどうの木は、小さな、地方的で、個人的な有機体ではありません。それは大きく、団体的で、宇宙的な有機体、三一の神の有機体です。
ヨハネによる福音書における三一の神
ヨハネによる福音書ほど完全に三一を明らかにしている書は、聖書にはありません。この書全体が三一と関係があります。ここほど実際的に御父、御子、その霊が啓示されている書はほかにありません?ヨハネによる福音書全体は、御父とその霊を伴う御子についての書です。ですから、第十五章における有機体は、単にキリストの有機体ではなく、三一の神の有機体です。
この章の冒頭の言葉で御子、主イエスは、「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫である」と言われます。あなたはその霊がこの章のどこにあるのかと思うかもしれません。その霊はぶどうの木の樹液、命のジュースです。ですから、三一がこの有機体を構成し、それはわたしたちを含んでいることがわかります。ぶどうの木の有機体は神性だけでなく、人性をもって構成されています。主を賛美します、この宇宙的な有機体は、三一の神とわたしたちの両方から構成されています! 事実、わたしたちはこの有機体の重要な部分です。これは大きな意義のある事柄です。
命としての神が有機的なからだの中で成長する
ヨハネによる福音書第十五章のぶどうの木の有機体は、全聖書の焦点です。有機体は、命を含み器官を持つ有機的な体です。多くのクリスチャンは、ヨハネによる福音書第十五章を、主がわたしたちと主との関係を記述するのに用いられたたとえ話にすぎないと考えています。しかし、それは単なるたとえ話ではありません。それは神の意図の焦点を啓示する実際です。神は命であり、命は成長してそれ自身を表現する有機的なからだを必要とします。花の種の内側にある命の要素でさえ、有機的な体を必要とします。種は有機的な体であり、それによってその内側の命は成長し、完全に表現されることができます。神は有機的なからだの内側で成長し、そのからだによってご自身が表現されることを願っておられます。このからだはキリストと召会の有機体です。
聖書の焦点は、有機的なからだの中で成長する命としての神です。これは、神が成長する命であること、その成長する命は有機体、有機的なからだを必要とすることを意味し、その中で神は成長することができ、それを通して神はご自身を表現することができます。わたしたちは、神はわたしたちの創造主であり、礼拝の対象であり、わたしたち被造物は彼を礼拝しなければならないと告げられてきました。これは間違いではありませんが、聖書の啓示の非常に浅薄な理解です。それは確かに、神の啓示の焦点の内なる内容ではありません。
神聖な焦点の内なる内容は、神がわたしたちの創造主であり礼拝の対象であるだけでなく、彼が命であることです。命は礼拝を要求しません。カーネーションの種をテーブルの上に置いて、それを礼拝するとは何と愚かなことでしょう!もしあなたがこれを行ない、カーネーションの種が語ることができれば、それは言うでしょう、「愚かな人よ! あなたは何をしているのですか? あなたがわたしを礼拝すればするほど、ますますわたしは苦しむのです。わたしを礼拝する代わりに、どうかわたしを土の中にまいてください。そうしてもらえたら、わたしは幸いでしょう」。究極的に、神はわたしたちの礼拝の対象ではありません。彼は命であって、有機的なからだの中で成長し、彼が表現されることを願っておられるのです。
(ウイットネス・リー, 新約ライフスタディ ヨハネによる福音書(二), 377-379)
キリストの内住はわたしたちを三一の神の有機体の一部分とする
主イエスは死んで、復活し、ひそかに御父へ昇天した後、その同じ日に戻って来て、肉体の体をもって、奥義的な方法で閉ざされた部屋に入られました(二〇・十九)。どの科学者や学者も、キリストがどのようにしてあの部屋の中に入ることができたのか、説明することはできません。第二〇章二二節によれば、「彼らの中に息を吹き込んで言われた、『聖霊を受けよ』」。一見して、これはヨハネによる福音書の結論です。実は、この福音書はまだ完成されていません。主が彼の弟子たちの中に息を吹き込まれたことは、この奥義的な方、すべてを含む方が、彼らの中へ来られたことを示します。ヨハネによる福音書第二〇章には、主が弟子たちを去られた記録はありません。彼は来ましたが、彼は去られませんでした。彼らの中に息を吹き込んだ後、彼は、「さようなら。いつかまた、あなたがたを訪れる」とは言われませんでした。わたしは若かったころ、この事を読んだ時、ここに、主が弟子たちから去って行かれたことを告げている記録がない事実に当惑しました。後ほど、主は彼らの中に息を吹き込んだ時、彼らの中へ来られたことを認識しました。主はもはや弟子たちの外側ではなく、彼らの中におられたのです。
初めに、すなわち、永遠の過去、キリストは空間と時間の両方において遠く離れておられました。彼は言として、神の表現として存在しておられました。しかし、ヨハネによる福音書の終わりまでに、彼は奥義的な方法でわたしたちの中へ入って来られました。触れ、見ることができる、肉体を持うた方が、どのようにして閉ざされた部屋の中に入って来ることができたのか、だれも定義し、説明することはできないのと同じように、キリストがどのようにしてわたしたちに内住されるのか、だれも説明することはできません。原則は、それぞれの場合において同じです。キリストの内住は奥義的です。本書の初めでは、キリストはわたしたちから遠く離れていましたが、今やわたしたちの内側におられます。空間と時間に関する限り、彼とわたしたちとの間には、もはやいかなる距離もないのです。彼とわたしたちは一つです。さらに、キリストはわたしたちをご自身の一部分とされました。この一はぶどうの木によって例証された有機体であり、神聖な分与における人性を伴う三一の神の有機体です。今日わたしたちはこの有機体の中にいます。わたしたちはみな、この明確なビジョンを必要とします。
(ウイットネス・リー, 新約ライフスタディ ヨハネによる福音書(二), 381-382)
教会が三一の神の具体化であると言うのは、教会を神格の一部分、礼拝の対象にすることではありません。教会とは全く神が産み出し(ヨハネ一・十二–十三)、神の命を所有し(Iヨハネ五・十一ー十二)、そして神の性質を享受している(IIペテロ一・四)一実体を意味します。教会は神聖な本質を持ち、キリストのかたちを帯び、そして神そのものを表現しています。わたしたちは神から生まれましたから、わたしたちは確かに神の命を持ち、また彼の性質を所有しています、そしてわたしたちはこの命と性質を毎日享受します。わたしたちは彼のあわれみと恵みによって、わたしたちの天然の命によって生きるのではなく、神聖な命と性質によって生きることを学びつつあります。わたしたちがこのように造り変えられるに従って、キリストの豊満、表現、形、現れがあるようになるでしょう、そしてわたしたちはわたしたち自身によってではなく、七倍に強化された霊によって輝いているでしょう。
教会は三一の神を表現すべき三一の神の具現化です。わたしたちはキリストの肢体として神から生まれた神の子たちであり、彼の命を持ちまた彼の性質を所有しています。わたしたちはこの命と性質によって生きるために最善を尽くしています、それはわたしたちがこの豊かなキリストで満たされ、浸透されて、七倍に強化された霊を通して彼の表現となるためです。
これが地方教会です。それはほんの外面的な集合体ではありません。それは内面的な命の、しかも神そのものを表現している何かです。親愛なる聖徒たちよ、これが神の到着点です。
(ウィットネス・リー, 聖書における基本的啓示, 68-69)
枝々、御子にある信者たち
ぶどうの木ほど、わたしたちと主との間の生ける関係を、適切に例証することができる植物はありません。わたしたちはぶどうの木の枝です。これはどのような関係をあなたに示唆するでしょうか? 枝はぶどうの木を表現する以外、何にも適しません。ぶどうの木であるすべて、持っているすべては、枝を通して表現されます。個人的に、枝は再生された人たちです。団体的に、彼ちは召会、キリストのからだ(エペソ一・二二–二三)です。枝、御子にある信者たちは、実を結ぶことを通しての御父と共なる御子の表現のためです。
実を結ぶとは何でしょうか? それは、内なる命の豊富が満ちあふれることです。あなた自身の努力で人々をキリストにもたらそうとしてはなりません。策略を用いて魂を勝ち取ろうとしてはいけません。実を結ぶとは、あなたの内なる命が満ちあふれる事柄です。わたしたちは、絶えずキリストをわたしたちのすべてとして享受する必要があります。そうすれば、内なる命の満ちあふれを持つでしょう。この内なる命の満ちあふれから、人に届く流れがあるようになり、彼らの命の中に浸透するでしょう。この流れは多くの実を結ぶでしょう。それは単なる宣べ伝えや魂の獲得ではありません。それは内なる命の豊富の満ちあふれによって、実を結ぶことでなければなりません。
(ウイットネス・リー, 新約ライフスタディ ヨハネによる福音書(二), 115-116)
今や、命の満ちあふれによって実を結ぶとは何を意味するのか、理解することができます。わたしたちはこのビジョンを見る必要があります。それを見るなら、わたしたちは言うでしょう、「わたしは三一の神の有機体の一部分です。日ごとにわたしは、わたしの神に触れ、彼を飲み、彼を食べ、彼によって生きます。今や、自然に、この神がわたしから流れ出ています」。この命の満ちあふれは、わたしたちが実を結ぶことです。わたしたちが実を結ぶことは、神がわたしたちかち生かし出されることです。わたしたちは親類、隣人、同僚、友人と一緒にいる時、このようを生活を持ち、このような人物でなければなりません。最近、ある姉妹が空港で一人の婦人に会い、自然に彼女に、キリストにある豊かな供給を証ししたことについて分け与えました。その婦人は必ず、わたしたちの姉妹の証しに印象づけられたに違いありません。わたしたちの姉妹のロから出たことは、単なる宣べ伝えではありませんでした。それは彼女から生かし出された三一の神でした。わたしたちが、自分の親類や友人に対してそのような証しを持つなら、彼らは命の満ちあふれに印象づけられ、この流れは必ずそのうちの何人かの中へ入り込むでしょう。彼らはその流れで注入され、この有機体によって生まれた実となるでしょう。これが、内なる命の満ちあふれによって実を結ぶことです。
わたしたちは神聖なぶどうの木の枝です。わたしたちは三一の神の有機体の一部分です。命において、性質において、地位において、わたしたちは彼と同じです。ハレルヤ!日ごとにわたしたちは、わたしたちの神に触れています。彼は単にわたしたちの礼拝の対象であるだけでなく、生ける水としてわたしたちの内側にあるその霊です。わたしたちが彼を飲み、彼を食べる時、命の満ちあふれを持ちます。この満ちあふれが、わたしたちが日ごとの生活において実を結ぶことです。わたしたちの接触する人がこの流れを受け入れるかどうかは、神の選択の事柄です。しかしわたしたちは、選ばれた者たちはそれを受け入れ、神聖な有機体によって生まれた実となるのを確信することができます。これが、有機体を増し加え、神の王国を拡大する道です。これが、内なる命の満ちあふれによって実を結ぶことの意味することです。
(ウイットネス・リー, 新約ライフスタディ ヨハネによる福音書(二), 385-387)
3.新エルサレム
啓示録21:2 わたしはまた聖なる都、1 新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように整えられて、天から出て神から下って来るのを見た。
21:18 城壁は1 碧玉で築かれ、都は2 純3 金であって、純粋なガラスのようであった。21:2ノート1 新エルサレムは、すべての世代にわたって神に贖われたすべての聖徒から成る、生ける構成体です。それは、キリストの配偶者としての彼の花嫁であり(ヨハネ3:29)、神の住まい、神の幕屋としての神の聖なる都です(3節)。これは、天のエルサレムであり(ヘブル12:22)、神がわたしたちのために備えてくださり、アブラハム、イサク、ヤコブが切望したものです(ヘブル11:10,16)。これはまた上なるエルサレム、わたしたちの母なるエルサレムです(ガラテヤ4:26)。キリストの花嫁としての新エルサレムは、夫であるキリストから出て来て、彼の配偶者となります。それは、エバが夫アダムから出て来て、彼の配偶者になったのと同じです(創2:21–24)。彼女はキリストの命と性質の豊富にあずかることによって整えられます。神の聖なる都として、新エルサレムは、全面的に神へと聖別され、神の聖なる性質で完全に浸透されて、彼の住まいとなります。
旧約と新約の両方で、神は選びの民を配偶者(イザヤ54:6.エレミヤ3:1.エゼキエル16:8.ホセア2:19.IIコリント11:2.エペソ5:31–32)、またご自身の住まいにたとえておられます(出29:45–46.民5:3.エゼキエル43:7,9.詩68:18.Iコリント3:16–17.6:19.IIコリント6:16.Iテモテ3:15)。配偶者は愛における神の満足のためであり、住まいは表現における彼の安息のためです。これらの面はいずれも、新エルサレムにおいて究極的に成就します。彼女において、神は愛における最高の満足と、表現における最高の安息を、永遠にわたって持たれます。
(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)21:18ノート1 碧玉は造り変えられた宝石です(Iコリント3:12)。神の外観は、碧玉のようです(4:3とノート1)。碧玉の城壁は、都全体が、永遠における神の団体的表現として、神の外観を帯びていることを象徴します。
21:18ノート2 あるいは、透明な、混ざりもののない。
21:18ノート3 金は神の神聖な性質を象徴しているので、都が純金であるのは、新エルサレムが完全に神の神聖な性質のものであり、神の神聖な性質を要素としていることを象徴します。「純金であって、純粋なガラスのよう」とは、都全体が透明であり、少しの不透明なところもないことを象徴します。
(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)
さてわたしたちは最後のしるし、新エルサレムに来ます。新エルサレムはすべての燭台の集合体です。本書の冒頭に、七つの燭台、この時代における地方の燭台があります。本書の終わりには一つの集合的、一つの構成された燭台、地方的なものではなく永遠的なもの、宇宙的なものがあります。啓示録は燭台で始まり、唯一の燭台で終わります。燭台は諸教会のしるしです、新エルサレムはまた一つの燭台、神の住まわれるところのしるしです。
(ウィットネス・リー, 聖書における基本的啓示, 180)
聖なる御言を学び理解する際、クリスチャンは自分たちの天然の思考を持ち込みます。新天新地において、わたしたちは新エルサレムに住むでしょう。しかしわたしたちは新エルサレムを物質的な都と考えてはいけません。わたしたちの住居になるのは神です。若かったころ、わたしは幾人かの聖書教師たちが、「天的マンション」でわたしたちは何を食べるのか、トイレはどこにあるのかなどと議論していたのを開きました。わたしたちの天然の思考を持ち込むことは何と貧しいことでしょう。
今日、わたしはある聖徒たちに、彼らは教会の中にいるのかどうかと尋ねました。彼らが「はい」と答えたとき、わたしは彼らにその教会を見せてくださいと求めました。新約聖書はわたしたちに、教会は神の家であり、神は彼の家に住んでおられると語っています。しかしどこに教会があるのですか。神の家としての、またわたしたちの家庭としての教会は物質的な建物ではありません、実は生ける信者たちの一構成体です(Iペテロ二・五)。それは物質的な、命のない実体ではなく、生きているパースンから成る一つの有機的構成体です。それはどこでも信者たちが集まる所に存在します。神の家としての教会は今日、生きているパースンの一構成体です、それは団体的パースンです。これはこの時代において実際です、またそれは永遠において実際であります。
(ウィットネス・リー, 聖書における基本的啓示, 184-185)
全聖書と矛盾しない
神の家という思想は旧約聖書の中にもあります。モーセは詩篇第九〇篇一節の中で「主よ、あなたはすべての世代にわたって、わたしたちの住居であられました」と言っています。
主イエスは、もしだれでも彼を愛するなら、彼の父と彼はその人のもとに行き、そして彼と共に住まいをつくるであろうと、言われました(ヨハネ十四・二三)。わたしたちは彼の住居であり、そして彼はわたしたちの住居であります。ヨハネの福音書第十五章で主は言われます、「わたしに住みなさい、そうすればわたしもあなたがたに住む」(四節)。ヨハネの第一の手紙第三章二四節と第四章十五節の中に、「わたしたちは神の中に住む、すると神はわたしたちの中に住む」とあります。
この教会時代に、わたしたちは神の中に住んでいます、そして神はわたしたちの中に住んでおられます。あなたがたは、わたしたちが新天新地に入る時、わたしたちは神から出るだろうし、また神はわたしたちから出られるのだと信じますか。もしこの時代において、わたしたちが神をわたしたちの住居として取り、神の中に住むことができ、また神にわたしたちの中で一つの場所をお与えすることができるとしたら、永遠の中でわたしたちがもはや彼をわたしたちの住居として持たず、実はむしろわたしたちの住居として黄金の都に住むものと考えるのは論理的ではありません。
わたしたちは、主の中にわたしたちが住むことと、彼がわたしたちの中に住まわれることとが強化され、拡大され、極限まで引き上げられることを信じなければなりません。ヨハネが都の中に宮がないのを見、「宮は全能の主なる神と小羊とである」と言ったのはこの理由です(啓二一・二二)。これはその都が一つの物理的な場所ではないという一つの強い表示です。この都では宮は一人のパースンです。このパースンは神と小羊です。三一の神そのものが宮です。都の内側の宮が一人のパースンであるとしたら、あなたはその都が何か命のないものであると思いますか。
宮が一人の神聖なパースンである以上、三一の神ご自身なる、その都はまたパースンであるに違いありません。実はその都全体が三つの等しい寸法を持った至聖所です(列王上六・二〇。啓二一・十六)。三一の神が宮であられ、また都全体が至聖所であるからには、その都は何か物質的なものであるはずはありません。
新約の時には、この地上の神の住居はまずただ一人の人、イエス・キリストでした。彼は神の幕屋でした。それから彼に続いて、教会が神の宮です(エペソ二・二一ー二二。Iコリン三・十六)。イエスただ一人のパースンが神の幕星、神の住居でした。それから一人の団体の人として、教会が神の宮、神の住居となりました。これが新約です。新約時代の後、わたしたちが永遠に入るとき、神の住居は生けるパースンから命のない物質的な都に変わるのではありません。わたしたちは神の住居として共に建造されたこれらのパースンが、拡大され強化されることを信じなければなりません。来たるべき時代には、神の住居としてのこれらの生けるパースンの拡大があるでしょう。
(ウィットネス・リー, 聖書における基本的啓示, 185-187)
文字どおりの都ではない
もし新エルサレムが金、真珠、宝石から造られた事実上の都であるとしたら、一つの物質的な都が全啓示の結論であることを意味するでしょう。これは論理的ではありません。神はもろもろの時代を通して働いてこられました。まず彼は宇宙を創造されました。それから彼は人を創造されました。彼はその後、人を贖うため受肉されました。彼はこの地上で生活し、十字架にかけられ、それから復活し、昇天され、そしてご自身をその霊として彼の弟子たちの上に注ぎ出されました。それから弟子たちは福音を宣べ伝えるために出かけて行きました。多くの人々が救われ、教会に加えられました。彼らはキリストを表現する一つのからだとして建造されつつあります。あなたは最終的結果は、神が単に一つの物質的な都を獲得されることだと信じますか。あなたはこれが神の意図であると思いますか。
もしそうだとしたら、神は貧弱な建築家でしょう。彼の創造、受肉、十字架刑、復活、また昇天を通し、世代に次ぐ世代における諸教会の建造、聖徒たちの完成を通し、神は一つの大きな文字どおりの都よりはるかに偉大な何かを準備しておられるのです。神は一つの都よりさらにすばらしい何かをすでに創造されました、それは宇宙です。太陽系は美しいです、しかし神はそれに満足されません。神はこの一つの都に、たとえそれが合衆国の半分の大きさの都であったとしてもどうして満足されるでしょうか。そのような幻、そのようなしるしを天然的な方法で解釈するのは間違っています。
教会は今日わたしたちの家庭です。わたしたちが教会に来るとき、わたしたちは家庭に来ます。教会は神の中にあります。神と共なる教会生活はどこにでもあります。ダラス、ヒューストン、香港、そしてこの地上至る所に諸教会があります。ハレルヤ! わたしたちが行くどこにでも、そこにわたしたちの家庭があります。わたしたちには新エルサレムに家があるかどうかをなぜ心配するのですか。このことについて心配する必要はありません。神はこれらの物質的な物事に関心がありません。この物質的な思考は消え失せなければなりません。
(ウィットネス・リー, 聖書における基本的啓示, 187-189)
永遠にわたる神の住居
神が気にかけておられるの墜彼の選び、贖い、再生し、造り変え、栄光化された人々から成る生ける構成体です。これらすべては永遠にわたり神を表現するため、共に建造されるでしょう。これは永久に神を満足させます。サタンは火の池の中にいるでしょう。神は彼の生きている住居の中におられるでしょう。彼が創造し、選び、贖い、再生させ、造り変えた人々は、彼の姿へと栄光化されるでしょう。彼は彼らの中で生きられ、また彼らは彼の中に住んでいるでしょう。何びともそのように深遠な観念を十分に説明することはできません。驚異的です! これが神の住居であり、神の愛する息子、キリストの妻であります。いかなる物質的な建物も妻ではあり得ません。妻は何か有機的な生きているパースンです。
新エルサレムは新天新地における神の住居を象徴します。新約では、地上の神の住居はまず一人の単独な人、イエス・キリストで、彼は幕星によって象徴されました(ヨハネ一・十四)。それから一人の団体の人、教会で、それは宮によって象徴されました(Iコリント三・十六)。新天新地では、小羊の妻としての神の住居は(啓二一・九ー十)やはり彼の贖った人々の生きている一構成体で、十二部族によって代表される旧約の聖徒たちと、十二使徒によって代表される新約の聖徒たちとの両方から構成されています(啓二一・十二、十四)。
これらの人々は、神の住居となるように共に建造されましたが、まずキリストの死と復活を通して再生を経験しました。これはその都へと入る入口である真珠の門によって象徴されています。真珠は、死の水の中の一つの生き物、かきによって産出されます。一つの砂の一粒がそのかきを傷つけると、それは砂の周りにある物質を分泌し、それがその砂を真珠にします。かきの傷は死を象徴し、砂粒の周りの命の液汁の分泌は復活の命を象徴します。イエスの死と復活は再生を通しわたしたちを真珠にします。だれ一人として再生によらないで神の王国に入ることはできません(ヨハネ三・五)。
聖なる都では、神の性質または神の本質はわたしたちの基本的本質になり、金によって象徴されます(啓二一・十八後半、二一後半)。本来の都は金であり、また大通りは金です。すべての信者たちの本質はほかならぬ神ご自身です。
その霊の働きによって、わたしたちは神の姿へと造り変えられ、それは碧玉によって象徴されます。御父の性質(金)、御子の贖いとわたしたちの再生(真珠)、またその霊の造り変えるみわざ(宝石)は、神のこの永遠の住居を構成するすべての構成材料を産出します。神の住居はまたわたしたちの住居です。わたしたちはまた共に建造されて神の至聖所となり、栄光の中の彼を表現します。
(ウィットネス・リー, 聖書における基本的啓示, 189-190)
聖なる都はまた神の住まいでもあるということです(啓二一・三)。神とキリストはこの都に住んでおられます。一方で彼らは宮であり、その中にわたしたちは住みます。他方で彼らは都の中の住民でもあります。これは新エルサレムが相互の住まいであるという意味です。神はわたしたちの中に住み、わたしたちは神の中に住みます。今日、召会は神が住まわれる住まいです(エペソ二・二二)。そして神はわたしたちの住みかです(詩九〇・一)。これは新しい概念ではありません。キリストはヨハネによる福音書第十五章で言われました、「わたしの中に住んでいなさい。そうすれば、わたしもあなたがたの中に住む」(四節)。その意味は、「わたしはあなたの住まいであり、あなたはわたしの住まいである」ということです。ですから、神と共にわたしたちは相互の住まいとなります。何と深遠でしょう! 神にとってわたしたちは都であり、わたしたちにとって神とキリストは宮です。わたしたちは神の臨在を持ち、わたしたちにとって宮であるキリストを持ちます。わたしたちはただ神の臨在やキリストの臨在の前にいるだけでなく、神の臨在やキリストの臨在の中にいるのです。神とキリストの臨在はわたしたちにとって住まいとなります。召会で神とキリストに仕えようとするなら、神とキリストによって取り巻かれ、神とキリストによって覆われなければなりません。わたしたちは神とキリストの中で神とキリストに仕えなければなりません。おお、わたしたちは何と彼を必要とすることでしょうか! 彼はわたしたちが仕える方であり、彼はわたしたちが仕える宮でさえあります。あなたはそのように神とキリストを認識し、経験しているでしょうか? そのように神とキリストに仕えているでしょうか? これは極めて主観的なことです。
人の論理は、そのような相互の住まいは矛盾していると論じます。ある人は尋ねるでしょう、「いったいだれが中にいて、だれが外にいるのですか? もし、神とキリストがわたしたちの中におられるなら、彼らはどうしてわたしたちの外にいることができるのでしょうか? 神とキリストがわたしたちの中におられるなら、わたしたちは決して神とキリストの中に住むことはできません」。最上の論理学者もこのことを決して了解できません。しかし、考えてみてください。空気はわたしたちの中にあり、空気はまたわたしたちの外にもあります。空気はわたしの中にあり、わたしは空気の中にいるのです。もし、空気がわたしの中になかったなら、わたしはすぐに息を引き取るでしょう。そして、もしわたしが空気の中にいないなら、決して呼吸できません。この主観的な事実を信じることは難しくありません。
神とキリストはあなたの中におられ、あなたは神とキリストの中にいるのです。神を賛美します! わたしたちはこのことを生活において実際として経験します。ある日、新天新地においてわたしたちはこのことが完全にわかるでしょう。神とキリストがわたしたちにとってどのようであるかを見るでしょう。彼はわたしたちの中に住み、わたしたちは彼の中に住むのです。そうして、彼の臨在を極限まで享受するでしょう!
(ウィットネス・リー, 神の建造のビジョン, 321-323)
三一の神と三部分の人との混ざり合い
わたしたちは贖われ、再生されてきました、そして今やわたしたちは造り変えられつつあります。わたしたちはまた栄光化される途中でもあります。わたしたちの霊は再生され、わたしたちの厄介な魂は造り変えられつつあります、そしてわたしたちの貧しい体は変ばうを待ち望んでいます。
新エルサレムにおいて三一の神は、贖われ、再生され、造り変えられ、栄光化された三部分の人と全く混ざり合われます。この混ざり合いは神の永遠の住居であり、十二の数によって象徴されています。十二とは三の四倍です。わたしたちはこの都が四つの側面を持った正方形なのでこのことを知ります。どの側面にも三つの門があります(二一・十三)。永遠にわたり新エルサレムは絶対的に混ざり合いです、それはただ加えるのではありません。それは積です、すなわち三の神(三)と人(四)との積です。
新エルサレムにおいては十二という数字が十四回用いられています。十二の宝石の十二の土台は、十二使徒の名を帯びています(二一・十四、十九ー二〇)。十二人の御使いを伴った十二の真珠の十二の門は、十二部族の名を帯びています(二一・十二、二一前半)。その都の寸法は、立方体の一万二千スタディアです(二一・十六)。壁の高さは百四十四キュビトであり二一・十七前半)、それは十二キュビトの十二倍です。命の木は一年十二か月毎月十二種の実を産出します(二二・二)。十二という数字が非常に度々出てきますが、聖なる都が三一の神と三部分の人との混ざり合いであることを意味します。
(ウィットネス・リー, 聖書における基本的啓示, 206-207)
三一と彼の贖われた者とのミングリング
新エルサレムは、神聖な三一と神の贖われた人々との構成体です。まず第一に、それは金によって象徴された父なる神の性質で構成されていたす。その都と大通りは純金で造られており(啓ニ一・十八、二一後半)、それはその性質における父なる神を示しています。新エルサレムの十二の門、すなわち十二の真珠(啓二一・二一前半)は、子なる神の勝利を得た死と命を分け与える復活を象徴します。真珠貝は、死の水の中に生きる小動物です。それには、死の水に打ち勝つ命があります。また、命の成分を分泌することによって真珠を産出します。キリストの勝利を得た死と彼の命を分け与える復活は、わたしたちを真珠へと形成する神聖な命の「分泌液」を分泌します。ですから、真珠においてわたしたちは、彼の死と復活の中の御子を見ることができます。真珠は、神が贖って再生した人々を象徴します。ヨハネによる福音書第三章によれば、再生は王国への入り口です。あなたはその霊から生まれるのでなければ神の王国へと入ることはできません(ヨハネ三・五)。再生は新エルサレムへの入り口、門です。
宝石は、その霊なる神の造り変えのわざを象徴します(啓二一・十一、十八–二〇)。再生の後、その霊は神の贖われた民の造り変えを続け、一人一人を宝石にします。これによってあなたは、新エルサレムは本質としての御父、入り口としての御子、造り変えとしてのその霊から成る構成体であることを見ることができます。それは、三一と、贖われ、再生され、造り変えられた人性から成る建造です。
新エルサレム全体は、父なる神と、子なる神である小羊との御座から流れ出る生ける水の川としての霊なる神で浸透されています。川には命の木が生えています(啓二二・一–二)。命の水、その霊なる神は、渇きをいやします。また命の木、子なる神は養います。三一の神と贖われた民との構成体である都全体は、神聖な命で潤され、養われ、浸透されています。それは、その贖われた民に浸透するためにご自身を分与しておられる三一の神にほかなりません(啓二二・一–二、十四、十七)。これは何という絵でしょうか!これは三一の神と彼の贖われた民とのブレンディングです。御父の性質はその本質です。彼の死と復活を含む御子の贖いは入り口です。その霊の造り変えは、わたしたちを神聖にし貴重にするみわざです。そのような構成体が新エルサレムです。それは永遠の命、すなわち三一の神ご自身によって浸透されています。これが神聖な分与の完成です。
わたしはこれらのメッセージを通して、あなたが神のエコノミー、神のゴールのビジョンを見て、神がそのゴールに達するために行なっておられることを見るようにと主を仰ぎ望みます。神が行なっておられることは、御父、源として、御子、表現として、その霊、まさに入って来られる方として、ご自身をあなたとわたしの中に分与することです。日夜、彼はこの一事で働いておられるのです。彼はこの一つのゴールに向かって働いておられます。すなわち、わたしたちすべてがこの時代において三一の神を表現する燭台となり、最終的には永遠においてあの花嫁、命としての三一の神で浸透された、贖われ再生された人性から成る構成体となることです。
(ウイットネス・リー,神聖な三一の神聖な分与(上), 233-235)
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