三一の神・目次>第十一章 啓示録の中で啓示されている三一の神
1. 恵みと平安が三一の神から
啓示録1:4 ヨハネがアジアの七つの召会に書き送る。恵みと平安があなたがたにあるように。今おられ、昔おられ、やがて来ようとしておられる方から、また彼の御座の前の七つの霊から、
1:5 また忠信な証人、死人の中から最初に生まれた方、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストからあるように。わたしたちを愛して、その血によってわたしたちを罪から解放し、
啓示録第一章四節と五節は言います、「恵みと平安が‥‥今おられ、昔おられ、やがて来ようとしておられる方から、また彼の御座の前の七つの霊から、また忠信な証人、死人の中から最初に生まれた方、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストからあるように」。「今おられ、昔おられ、やがて来ようとしておられる方」は、永遠の父なる神です。御座の前の「七つの霊」は神の活動の霊、霊なる神です。神に対して「忠信な証人」、召会に対して「死人の中から最初に生まれた方」、この世に対して「地上の諸王の支配者」であるイエス・キリストは、子なる神です。これは三一の神です。彼は永遠の父なる神として、昔おられ、今おられ、やがて来ようとしておられる方です。彼は霊なる神として、神の活動のために七倍に強化された霊です。彼は子なる神として、「証人」、神の証し、表現であり、召会のために「死人の中から最初に生まれた方」、新創造であり、この世のために「地上の諸王の支配者」です。そのような三一の神から、恵みと平安が諸召会に分与されます。
(ウィットネス・リー, 新約ライフスタディ 啓示録(一), 63-64)
すでに見てきたように、わたしたちの神は三一です。彼が三一であるとは、彼が御父、御子、その霊であることを意味します。三一の神を徹底的に理解することは不可能です。なぜなら、、神聖な三一は、わたしたちの知性をはるかに超えているからです。あなたの知性をあまり働かせないでください。ただあなたの霊を活用して、三一の神を御父、御子、その霊として認識し、経験してください。
御父
まず、全能者なる神は御父です。御父は神ご自身にほかなりません。彼が御父であるとは、彼が源であることを意味します。御父はまた主であり、第一章四節が明らかにしているように、今おられ、昔おられ、やがて来ようとしておられる方です。
その霊
啓示録では、三一の神の順序が、マタイによる福音書にあるのと違っています。マタイによる福音書第二八章十九節では、三一の神の順序は御父、御子、その霊です。ところが第一章四節と五節では、その順序が変わっています。神の七つの霊が三番目ではなく、二番目に置かれています。これは、神の七倍に強化された霊の機能の重要性を啓示します。この点は、第二章七、十一、十七、二九節、第三章六、十三、二二節、第十四章十三節、第二二章十七節で、その霊の語られることが繰り返し強調されることで確認されます。書簡が開かれる時は御父と御子だけが述べられ、御父と御子から恵みと平安が受け取り人に与えられています。しかしここではその霊も含められ、彼らから恵みと平安が諸召会に分与されます。これはまた、召会の堕落に対抗する神の動きのための、その霊の重大な必要性を意味します。
(ウィットネス・リー, 新約ライフスタディ 啓示録(一), 66-67)
神の七つの霊
第一章四節で、その霊は神の強化された霊ですから、彼は七つの霊と呼ばれています。七つの霊は、疑いもなく神の霊です。なぜなら、彼らは四節と五節、三一の神の間に位置づけられているからです。わたしたちは自分の天然の、制限された知能によって聖書を理解することはできません。わたしたちの概念によれば、「七つの霊」という言葉は、七つの個々の霊を示します。しかし、これはそういう意味ではありません。ここの七という数は、七つの異なる霊ではなく、七倍にされた一つの霊のことです。
七は神の経綸上の動きにおける完全な数であり、十二は神の永遠の行政におけるる完全な数です。例えば、神は地を六日プラス一つの安息日で創造されました。さらに、聖書には七つの時代があります。神の今日の動きのために、召会には七という教があります。啓示録での七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢は、すべて神の経綸上の動きのためです。ですから、七倍の霊は、神の今日の動きにおける強化された霊です。
七は神の活動における完全な数ですから、七つの霊は地上における神の動きのためです。実体と存在において、神の霊は一つです。神の強化された機能と活動の働きにおいて、神の霊は七倍です。!それは、ゼカリヤ書第四章二節における燭台のようです。それは存在においては一つの燭台ですが、機能においては七つのともし火です。啓示録が書かれた時、召会は堕落し、時代は暗やみとなりまた。ですから、神の七倍に強化された霊が、地上における神の動きと働きのために必要でした。わたしたちは、三段階の照明度に応じて点灯できる電球をよく知っています。あまり光を必要としない時は、電球を第一段にスイッチを入れますが、もっと照明を必要とする時は、第二、第三段にスイッチを入れます。同じように、燭台の七つのともし火は七倍に強化された光でした。四福音書では、神の霊は一倍でした。なぜなら、その当時はそれほど多くの光を必要としなかったからです。しかし召会が堕落し、時代がはなはだしく暗くなってからは、聖霊が七倍に強化される必要がありました。こうして神の霊は七倍になりました。存在において、聖霊は、ゼカリヤ書における燭台のように一つですが、機能において聖霊は七つです。
(ウィットネス・リー, 新約ライフスタディ 啓示録(一), 67-68)
御子
(1)忠信な証人
御子は忠信な証人です(一・五、三・十四)。彼は神の証人です。彼は神ですが、また神の証人です。彼がなかったら、わたしたちは神を知り、神を見、神を得ることはできません。神は彼によって証しされます。
(2)死人の中から最初に生まれた方
御子は死人の中から最初に生まれた方です(一・五)。宇宙においで、神は二つの創造を持っておられます。それは、彼の第一の働きによる創造と、彼の第二の働きによる創造です。わたしたちはみな最初の創造を知っています。しかし、神の第二の創造になじみの深い人は多くいません。神の第二の働きは復活です。第一に、神は現在のすべてのものを創造されました。第二に、彼はこれら現存しているあるものを復活させて、彼らを別の範囲、別の領域にもたらされました。それは復活の領域です。わたしたちは神の第一の創造の中にいるでしょうか、それとも彼の第二の創造の中にいるでしょうか?わたしたちの肉体は、神の第一の創造の中にとどまっていますが、わたしたちの霊は、彼の第二の創造の中にいます。わたしたちの霊は再生されました。それは再創造されたことを意味します。ですから、それは神の第二の創造に属します。神の両方の創造においてキリストが最初です。コロサイ人への手紙第一章十五節は、キリストは全被造物の中で最初に生まれた方であると言い、啓示録第一章五節は、彼は死人の中から最初に生まれた方であると言っています。彼は死人の中から復活させられた最初の方です。そしてわたしたちは彼の後に続くでしょう。ここの「死人の中から最初に生まれた方」という句は、復活における神の創造を示しています。これは新しい始まりを意味します。神の最初の創造において始まりがありました。そして神の復活における第二の創造においてもう一つの始まりがありました。わたしたちは再生された時、神の第二の創造における新しい始まりを経験しました。
(3)地上の諸王の支配者
御子は地上の諸王の支配者です(一・五)。共産主義者たちはキリストに敵対していますが、彼らは無意識のうちに、キリストの暦を使っています。歴史によれば、だれかの麿を使うことは、その者に従属していることになります。もしだれかがある王の暦を使っているなら、彼はその王の支配下にいるに違いありません。同じょうに、共産主要はイエス・キリストの下にいます。なぜなら、彼らはキリストの暦を使っているからです。彼らは、それは国際的な暦であると言っています。しかし実はキリストの暦です。このように彼らは、キリストが彼らの支配者であることを無意識に承認しています。宇宙にはひとりのユニークな支配者がおられます。全人類は今日、キリストの暦を使い、彼の支配下にあります。地上のすべての民族は彼の民です。そして彼は諸国民の支配者です。イエスは共産主義者に対してこう言われるでしょう、「あなたがたはわたしに敵対している。しかし、わたしはあなたがたをわたしの民とならせる。わたしはわたしの暦をあなたがたに使わせる。そしてあなたがたはわたしの支配下にあることについて、何の選択権も持たない。わたしは地のユニークな支配者である」。
(ウィットネス・リー, 新約ライフスタディ 啓示録(一), 72-74)
2. 語る霊
2:8 スミルナに在る召会の使者に書き送りなさい。『最初の者また最後の者、死んだが再び生きた者が、こう言われる。
2:11 耳のある者は、その霊が諸召会に言われることを聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死の害に遭うことは決してない』。
2:18 テアテラに在る召会の使者に書き送りなさい。『火の炎のような目を持ち、その足が輝く真ちゅうのような神の子が、こう言われる。
2:29 耳のある者は、その霊が諸召会に言われることを聞くがよい』。
第二章七節の初めの部分は言います、「耳のある者は、その霊が諸召会に言われることを聞くがよい」。第二章と第三章に記録された七つの手紙のそれぞれ冒頭で語られるのは主です(二・一、八、十二、十八、三・一、七、十四)。しかし、それぞれの手紙の終わりでは、諸召会に語られるのはその霊です(二・七、十一、十七、二九、三・六、十三、二二)。再び、これは、語りかけるキリストがその霊であることを証明します。キリストが語られることは何であれ、その霊の語りかけです。だれもこのことで議論することはできません。だれがエペソに在る召会に語っておられるのでしょうか? それはキリスト、右手に使者たちを持ち、諸召会のただ中を歩いておられる人の子です。七節が示しているように、語り手は最終的に、その霊です。これは、その霊が主であり、主がその霊であることを示しているだけでなく、召会の堕落の暗黒の中では、その霊が極めて重要であることを強調しています。これは、第一章四節で、七倍に強化された霊が示しているとおりです。同じ強調が、第十四章十三節と第二二章十七節でも見られます。今日キリストは語る霊ではない上言うのは愚かです。語る霊をキリストと分離するのはおかしなことです。その両者は一です。
もし語り手が語る霊ではなく、キリストだけだとしたら、彼は言葉をわたしたちの霊の中に語り込むことは決してできなかったでしょう。そして彼の語りかけが、非常に主観的であり感動を与えるということもなかったでしょう。しかし、わたしたちの経験が証しするように、これらの手紙を読む時、わたしたちの霊を彼に向かって開くなら、その霊は直ちにキリストの何かをわたしたちの内に語り込むでしょう。語り手が客観的なキリストだけでなく主観的な霊であればこそ、彼は聖書の白黒の文字で語るだけでなく、わたしたちの霊の中でも語られるのです。ひとたびわたしたちが彼の語りかけを聞くなら、消すことのできないものが、わたしたちの内に造り込まれます。そして何物もそれを取り去ることはできません。わたしたちのキリストは今日、語る霊です。わたしはこの事実に歓喜し、それを大胆に宣言します。
(ウィットネス・リー, 新約ライフスタディ 啓示録(一), 169-170)
聞くための正しい耳が必要である
霊的な事では、見ることは聞くことにかかっています。本書の筆者は、まず声を聞き(一・十)、それからビジョンを見ました(一・十二)。もしわたしたちの耳が鈍くて聞くことができないなら、わたしたちは見ることができません(イザヤ六・九–十)。ユダヤ人は主の言葉を聞こうとしなかったので、主が新契約にしたがって行なっておられることを、見ることができませんでした(マタイ十三・十五、使徒二八・二七)。主は常にわたしたちの耳を開いて、彼の声を聞かせようとされます(ヨブ三三・十四–十六、イザヤ五〇・四–五、出二一・六)。それは、わたしたちが彼のエコノミーにしたがって物事を見るようになるためです。鈍い耳は割礼される必要があります(エレミヤ六・十、使徒七・五一)。罪人の耳は贖いの血で清められ、その霊で油塗られる必要があります(レビ十四・十四、十七、ニ八)。祭司として主に仕えるために、わたしたちの耳は贖いの血で清められる必要があります(出二九・二〇、レビ八・二三–二四)。本書では、その霊が諸召会に語っておられるので、わたしたちはみな耳が開かれ、割礼され、清められ、油塗られて、その霊の語りかけを聞く必要があります。
わたしたちの角度と立場が正しくても、正しく聞く耳を持っていないかもしれません。第一章は見ることを強調し、第二章と第三章は聞くことを強調します。わたしたちは、見ることと聞くことの両方を必要とします。わたしたちの体の感覚のうち、見ることと聞くことと、どちらが重要でしょうか? 仮に、あなたが視力と聴力のどちらを失うか、その選択をするとします。あなたはどちらを選びますか? わたしたちは、見ることが聞くことよりも重要であると言うかもしれません。しかし、聞くことは見ることよりもさらに深いのです。ですから、わたしたちは主に言わなければなりません、「主よ、わたしは見ることも聞くことも必要です。主よ、あわれんでください。わたしに見る目と聞く耳を与えてください」。わたしたちは主と格闘して、見ること聞くことの両方ができなければなりませんと主に言わなければならないでしょう。
聞くことは見ることよりも、さらに親密です。わたしたちの最も親しい友は、親密に語りかけるでしょう。もしあなたが聴覚の器官を失うなら、愛する者とのこの親密さを享受することができないでしょう。第一章でヨハネは見ました。第二章、第三章で彼は聞きました。わたしたちは召会生活を見る必要があります。また、召会生活の親密な内容を聞く必要があります。召会を見るのは一つの事であり、召会生活の親密な内容を聞くのは別の事です。わたしたちの多くは召会を見たでしょう。しかし、召会生活の親密な内容を聞いた人は多くありません。ですから、わたしたちは聞く耳を必要とします。「耳のある者は、その霊が諸召会に言われることを聞くがよい」。
(ウィットネス・リー, 新約ライフスタディ 啓示録(一), 172-174)
その霊としての御子の中で諸召会に語る
御子は語られる時はいつも、その霊です。語る御子はその霊です。神の御子は言です。言が語る時、それはその霊となります。これは啓示録第二章、第三章の七つの手紙によって証明されます。それぞれの手紙の初めに、主が言われると言っていますが、その終わりでは、その霊が諸召会に言われることを聞くようにと言っています。これは、主イエスが語られる時はいつも、語る霊であることを証明します。御子が語っておられる時はいつも、その霊が語っておられます。啓示録第二章と第三章にある七つの比較を考えるなら、御子が語られるのは何であれ、その霊の語りかけであることがわかるでしょう(啓二・一、比較、七節、二・八、比較、十一節、二・十二、比較、十七節、二・十八、比較、二九節、三・一、比較、六節、三・七、比較、十三節、三・十四、比較、二二節)。わたしたちは神の言である御子を持ちます。彼は神の言であるだけでなく、神の語りかけでもあります。彼は語られる時はいつも、語る霊です。「わたしがあなたがたに語った言葉は霊であり、命である」(ヨハネ六・六三)。
(ウィットネス・リー, 新約ライフスタディ ヘブル人への手紙(一), 172-174)
3. 新エルサレムによって示されている三一の神
神聖な三一— 新エルサレムの基礎的構造
神聖な三一は新エルサレムの基礎的構造です。それは金で象徴された御父の性質で構成されています。都本体は金の山です、またその大通りも金です(啓二一・十八後半、二一後半)。これはその都が神聖なものであることを示します。神性がその建造の内容の基本的要素です。
死と復活を通しての御子の贖いは真珠によって象徴されます。真珠は真珠貝から出てきます。それらは貝が一粒の砂によって傷つけられた後に産出されます。真珠貝は命の液汁をその砂の周りに分泌し、それを真珠にします。これはキリストの受肉は真珠貝のように彼が死の水の中に入って行かれることを象徴します。わたしたちの違反と彼の復活の命の解放のために彼が傷つけられることが真珠を産出します。
その霊の造り変えは宝石によって象徴されます。金の中には御父の性質があり、真珠の中には死と復活を通しての御子の贖いがあり、宝石にはその造り変えのみわざの中のその霊があります。これは三一の神そのものが新エルサレムの基礎的構造であることを意味します。
(ウィットネス・リー, 聖書における基本的啓示, 204)
A. わたしたちの入り口である三一の神
啓示録21:12 それには大きな高い城壁があり、十二の門があって、その門には十二人の御使いがおり、刻まれた名があった。その名はイスラエルの子たちの十二の部族の名である。
21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
21:21 十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠からなっていた。都の大通りは純金であって、透明なガラスのようであった。
21:25 その門は終日、1決して閉ざされることはない。そこには2夜がないからである。
その門
今度は新エルサレムの門にわたしたちの注意を向けましょう。門の意義は土台の意義にも劣らず深遠です。これら十二の門の意義を把握するのは重要なことです。
(1)四方面それぞれに三つの門
啓示録第二一章十三節は、新エルサレムには東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があることを啓示します。ですから都は正方形です(十六節)。その四方面にそれぞれ三つの門があります。日の出の栄光に向かっている東側が正面で、第一であり、上方の北側が第二、底辺の南側が第三、背面の西側が第四です。四方面の門は、地の四方面に向かっており、それは地上のあらゆる人が聖なる都に入れることを表徴します(比較、創二・十–十四で川は四つに分かれている)。
(2)三一の神はすべての人があずかることができる
各方面の三つの門は、三一の神— 父、手、霊—が共に働いて、人々を聖なる都にもたらされることを表徴します。これは、ルカによる福音書第十五章の三つのたとえに示されており、またマタイによる福音書第二八章十九節の主の言葉で暗示されています。ルカによる福音書第十五章の三つのたとえは、羊飼いと失われた羊、女と失われた銀貨、父と帰って来た放蕩息子です。羊飼いは御子のことを言い、父はもちろん御父であり、女はその霊を表徴します。罪人が御父の家に連れ戻されるためには、御子、羊飼いが迷っている羊を連れ帰る必要があり、人々が悔い改めるようその霊が心を照らす必要があり、御父が戻って来て悔い改める放蕩息子を迎える必要があります。ですから、三一の神は新エルサレムへの入り口です。
三一の神が聖なる都の中に人々をもたらすために働いておられる事実は、マタイによる福音書第二八章十九節の主の言葉の中で暗示されています。父と子と聖霊の中へとバブテスマされることは、聖なる都への入り口です。ですから、父、子、霊は、都のそれぞれの面の三つの門です。三つの門は三つの方角にそれぞれあるのではなく、四つの方角のそれぞれに、三つの門が繰り返されてあるのです。四方面のどの面の門も、他の三つの面の門と全く同じです。これは、三一の神が地の四隅すべての人々に利用できることを示します。
三つの門は、三一の神が来てわたしたちに届き、わたしたちを彼の永遠のエユノミーの中にもたらされることを示します。神格の三つのパースン、父、子、霊は、神のエコノミーにあって出で来て、わたしたちに届き、わたしたちを彼のエコノミーの中に連れ戻されました。新約の多くの節が、三一の神のことを語っています。例えば、エペソ人への手紙第三章十四節から十七節でパウロは言いました、「こういうわけで、わたしは父に向かってひざをかがめて祈ります…どうか父が、彼の栄光の豊富にしたがい、力をもって、彼の霊を通して、あなたがたを内なる人の中へと増強してくださいますように。また、キリストが信仰を通して、あなたがたの心の中に、ご自身のホームを造ることができますように。またあなたがたが、愛の中に根ざし土台づけられ」。これらの節で、父、霊、子なるキリストを見ます。コリント人への第二の手紙第十三章十四節も、三一の神を開いて見せます、「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にありますように」。この節の神格の三つのパースンは、彼を分与するため、彼が出て行きまた入って来られるため、すなわち、彼が拡大され、わたしたちが入っていくためです。
(ウィットネス・リー, 新約ライフスタディ 啓示録(三), 264-266)
都の門
都にはすべての方向、北、南、東、西に向かう四つの側のそれぞれに三つの門があります(啓二一・十二–十三)。四という数字はいつも創造物あるいは被造物を象徴します。啓示録第四章は四つの生き物を啓示していますが、それはすべての創造物を代表します。三という数字は神格の三つのパースンを象徴します。これは神格の三つのパースンが、地の四つの方向すべてから来るあらゆる人々のための入り口そのものであることを意味します。わたしたちがどこにいようとも、神格の三つのパースンはわたしたちに達することができます。
ルカによる福音書第十五章は、三つのたとえ話を記録しています。迷った羊を捜す羊飼い、失われた銀貨を捜す女、放蕩息子を待つ父親です。主イエスは羊飼いとして来て、十字架上で死なれ、わたしたちを捜し出し、わたしたちを贖われました。キリストのみわざの後に聖霊は女として来て、わたしたちを照らし、わたしたちの心の中を探り、わたしたちを連れ戻されます。聖霊の捜す働きによって、わたしたちは悔い改め、わたしたちを喜んで受け入れてくださる父に立ち返りました。こうしてわたしたちは門を入ったのです。神格の三つのパースンは、わたしたちを建物そのものへともたらします。それらは地の四隅から来るだれに対しても入り口です。これは、コリント人への第二の手紙第十三章十四節で語られている三一の神の享受、すなわち神の愛、キリストの恵み、そして聖霊の交わりの中に入ることと一致します。
(ウィットネス・リー, 神の建造のビジョン, 288-289)
B. わたしたちの存在のための三一の神
啓示録 22:01 また御使いは、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。それは神と小羊の御座から、大通りの中央を流れていた。
神と小羊の御座
啓示録第二二章一節は言います、「また御使いは、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。それは神と小羊の御座から、大通りの中央を流れていた」。神と小羊の御座は、神と小羊の両方のための一つの御座であり、これは、神と小羊が一であること、すなわち小羊・神、贖う神、贖い主なる神を表徴します。永遠では、御座に座しておられる神は、わたしたちの贖いの神であり、その方の御座から、命の水の川が、わたしたちの供給と満足のために流れ出ます。これは三一の神— 神、小羊、その霊(命の水で表徴されている)が彼の贖われた者たちに、いかに彼の頭首権の下で(御座の権威で暗示されている)、永遠にご自身を分与されるかを描写しています。
一つは神のため、もう一つは小羊のためと、二つの御座があるのではないことに注意してください。キリスト教で使われている伝統的用語によれば、神と小羊への言及は、区別された二人のパースン、神と小羊が、一つの御座に座しておられることを意味します。神と小羊が、どのようにして一つの御座に座すことができるのでしょう? 並んで座すのでしょうか? 第二一章二三節に、これらの質問に対する正しい答えの手がかりを見いだします。この節で、神は光にたとえられており、小羊はともし火にたとえられています。光とともし火は、分離することができませんし、並んで立つこともできません。むしろ、光はともし火の内側から輝き出ます。ですから、光である神は、ともし火としての小羊の中におられるのです。神と小羊は並んで座しておられるのではなく、神がともし火である小羊の内にあって、彼を通して輝き出るのです。
わたしは、三一の伝統的な教えを使ってわたしたちに反対する人たちが、同一の御座に座す神と小羊を、どのように説明しようとするのかを見たいです。人の言葉は使わないほうがよいのです。なぜなら、それを使うとわたしたちは混乱し、純粋な御言どおり、徹底的に聖書を理解することができなくなるからです。聖書は、神は光であり小羊はともし火であると啓示しています。最終的に、光はともし火の中にあるのですから、これらは二つの実体ではなく、二つの面を持つ一つの実体です。三一を人の言葉によって説明することは極めて困難です。なぜなら、わたしたちはそれを正確に表現する用語も術語も持っていないからです。わたしたちは適切な言葉を持っていませんが、光としての神の絵、ともし火としてのキリスト、小羊の絵を持っています。両者が一つの御座に座しておられるという事実は、彼らが二人ではなく、一人であることを示します。
御座にいる方は、創造した神と贖った小羊です。ですから、わたしたちは彼を小羊・神と呼んでよいでしょぅ。これは、神が贖う神であることを意味します。この贖う神は、彼の行政の座に着いておられます。それは、彼の贖われたすべての者の中へと、ご自身を分与されるためです。
(1)金の山の頂上で
新エルサレムの御座は、金の山の頂上にあります。この都の一本の大通りは、最終的に御座に向かいます。主イエスは神を人の中へともたらすために、彼の御座から地へと下って来られました。これは、人類に届くために三一の神が自ら出て来られることです。彼を内側に受け入れた時、わたしたちは彼の中へとバプテスマされました。バプテスマは三一の神の中へと真に入り込むことであり(マタイ二八・十九)、三一の神の中に入ることは、新エルサレムへの最初の入り口です。真珠の門を通ると直ちに、わたしたちは、神の御座へと導き上る金の大通りにいるでしょう。
(2)命の供絵の唯一の源として
新エルサレムの中心にある神の御座は、命の供給の唯一の源です。神がご自身を命として、命の供給として、永遠の絶対的なすべてを恵みとして、わたしたちの中に分与されるのは、彼の行政によってです。彼がご自身をわたしたちの中に分与されることは、彼の行政にかかっています。こういうわけで、召会生活では今日、神聖な権威と召会の行政があるのです。召会生活には今日、神聖な行政があり、この行政は神の御座から来ます。召会における神聖な権威は、神がご自身を命として、命の供給として、すべてに十分な恵みとして、わたしたちに分与されるためです。わたしたち自身を神の権威と神の行政に服従させることによってのみ、わたしたちは、彼のすべてに十分な恵みにあずかることができるのです。
(ウィットネス・リー, 新約ライフスタディ 啓示録(三), 288-290)
命の水の川
今やわたしたちは、御座に座している贖う神が、彼の贖われたすべての者の中へと、どのようにご自身を分与されるかを考えなければなりません。神は御座から流れ出る川によって、ご自身をわたしたちの中に分与されます。一節によれば、この川は「命の水の川」と呼ばれています。この川は、創世記第二章十節から十四節、詩篇第四六篇四節、エゼキエル書第四七章五節から九節の川で予表されており、その流れにおける命の豊かさを表徴しています。それは、創世記第二章十節から十四節で一つの川が四つに分かれるように、聖なる都の四方向をくまなく流れる一つの川です。その豊かさを持つこの川は、ヨハネによる福音書第七章三八節に示されているように、わたしたちの経験の中では多くの川となります。
命の水は、神がキリストにあって霊と成って、ご自身を彼の贖われた民の中に流れ込ませ、彼らの命また命の供給となられることの表徴です。それは、裂かれた岩から流れ出た水で予表され(出十七・六、民二〇・十一)、主イエスの刺されたわき腹から流れ出た水で象徴されます(ヨハネ十九・三四)。ここで、この命の水は一つの川となり、神と小羊の御座から流れ出て、新エルサレム全体を供給し、浸透します。ですから、それは神聖な命で満たされ、神の命の栄光の中で、神を表現するのです。
わたしたちはこの川をさらに詳しく見る必要があります。創世記第二章十節は言います、「また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった」。この節によれば、一本の川が四つの川に分かれ、地の四方に行き渡りました。旧約聖書には、この川についての言及がほかに多くあります。詩篇第四六篇四節は、「一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ」と言います。エゼキエル書第四七章では、その水は家の敷居の下から流れ出し、「泳げるほどの水、越え得ないほどの川」となっています(五節)。同じ章の九節は、「この川の流れる所では、すべてのものが生きている」と言います。
この川はまた新約でも述べられています。イスラエルの子たちと彼らの荒野でのさすらいのことを語って、コリント人への第一の手紙第十章四節は言います、「みな同じ霊の飲み物を飲みました。すなわち彼らは、彼らについて来た霊の岩から飲んだのです。そしてその岩はキリストです」。イスラエルの子たちが渇いたためにつぶやいた時、神はモーセに、岩を打つように、そうすれば民が飲む水がそれから出て来ると言われました(出十七・一–六)。モーセはそのとおり行ないました。すると主は、「岩から流れを引いて、川のように水を流れさせられた」(詩七八・十六)。打たれた岩から流れ出た水は、命を与える霊の予表でした。主イエスはヨハネによる福音書でこの霊のことを語られました。ヨハネによる福音書第四章十節で、主はサマリヤの女に、彼が命の水を与える者であることを示し、十四節で言われました、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して永遠に渇くことはない。わたしが与える水は、その人の内で泉となって、永遠の命へとわき出るのである」。さらに、ヨハネによる福音書第七章三七節と三八節で、主イエスは言われました、「だれでも渇く者は、わたしに来て飲むがよい。わたしの中へと信じる者は、聖書が言っているように、その人の最も内なる所から、生ける水の川々が流れ出る」。ここで、一つの川が多くの川となるのを見ます。生ける水の川々は、命の水の唯一の川の命のさまざまな面の多くの流れです。そして、それは神の命の霊です(参照、ローマ十五・三〇、Iテサロニケ一・六、IIテサロニケニ・十三、ガラテヤ五・二二–二三、ローマ八・二)。ですから、第二二章一節に述べられている命の水の川の意味を理解したいなら、聖書を貫いているこの川の事柄の起源と発展をたどらなければなりません。
わたしたちは命の水の川が小羊・神の御座から流れ出るのを見ました。この川は、命を与える霊として流れ出る神の霊にほかなりません。第二二章一節で、三一の神— 神、小羊、川を見ます。神、御父は源であり、小羊、御子は贖い主であり、川はその霊です。ですから、源としての御父、経路としての御子、流れとしてのその霊があります。こういうわけで、第二二章一節に三一の神の流れを見ます。これは、ご自身をわたしたちの中に分与しておられる三一の神の絵です。彼はご自身から、ご自身を彼の贖われた者の中へと流れ込ませておられます。この三一の神のわたしたちへの分与は、神の行政の御座から出て来ます。これは、神の分与が彼の行政にかかっていることを意味します。これは今日の召会生活においてそうです。命の供給と神のすべてに十分な恵みの分与は、神の行政の御座から流れ出ます。最終的に、新エルサレムでは、この分与は都のあらゆる部分に行き渡り、都全体が三一の神で満たされ、浸透され、染み渡るでしょう。こうして都は神を表現するでしょう。
(ウィットネス・リー, 新約ライフスタディ 啓示録(三), 290-294)
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