三一の神・目次>第十章 書簡の中で啓示されている三一の神(二)
1. 三一の神の両面交通(エペソ第2章)
エペソ2:1–10 ところであなたがたは、自分の違犯と罪の中に死んでいて、かつてはそれらの中で、この世の時代に流され、空中の権威の支配者、すなわち不従順の子らの中に今も活動している霊の支配者にしたがって、歩いていました.わたしたちもみな、かつては彼らの間で、自分の肉の欲の中で振る舞い、肉と思いの望むままを行なっていたのであり、ほかの人たちと同じように、生まれながら激怒の子でした.しかし、あわれみに富んでおられる神は、わたしたちを愛してくださった彼の大きな愛のゆえに、わたしたちが違犯の中で死んでいた時、わたしたちをキリストと共に生かし(あなたがたが救われたのは,恵みによるのです)、キリスト・イエスの中で、わたしたちを彼と共に復活させ、彼と共に天上で座らせてくださいました.それは神が、キリスト・イエスの中で、わたしたちに対する慈愛の中の彼の恵みの卓越した豊富を、来たるべき時代において展覧するためでした。なぜなら、あなたがたが救われたのは、恵みにより、信仰を通してであって、これは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物であるからです.それは行ないによるのではありません.だれも誇ることがないためです。なぜなら、わたしたちは神の傑作であり、良い働きのために、キリスト・イエスの中で創造されたからです.神は、わたしたちがその良い働きの中を歩くようにと、あらかじめ備えてくださったのです。
エペソ2:13–18 しかし、かつて遠く離れていたあなたがたは、今やキリスト・イエスの中で、キリストの血によって近くなったのです。なぜなら、彼ご自身は、わたしたちの平和であって、両者を一つにし、そして敵意である隔ての中垣を取り壊し、数々の規定から成っている戒めの律法を、彼の肉体の中で廃棄されたからです.それは、彼がご自身の中で、二つのものを一人の新しい人へと創造して、平和をつくるためであり、また十字架を通して、両者を一つからだの中で神に和解させるためでした.それによって敵意を殺してしまったのです。そして彼は来られて、遠く離れていたあなたがたに、平和を福音として宣べ伝え、また近くにいた人たちに、平和を宣べ伝えられました.それは、わたしたち両者がキリストを通して、一つ霊の中で、父へと近づくことができるためです。
わたしたちの本来の状態
エペソ人への手紙第二章は、神の選ばれた者たちが堕落してしまったことを告げています。神がその選びの者たちの中へとご自身をを分与し始める前に、わたしたちは罪の中に落ち込んだだけでなく、死の中へも落ち込んでしまいました(一節)。違反と罪の中にある死という領域において、第一にわたしたちはこの世の時代にしたがって、すなわちこの世の潮流、流れにしたがって歩きました(二節)。何が時代の流れ、潮流であるのか、理解するのは難しくありません。この世の時代とはまさに、この世の現代的な様相を意味します。死の領域にいる堕落した人々として、わたしたちはこの時代の傾向にしたがって歩きました。第二に、わたしたちは不従順の子らの中に活動している霊にしたがって歩きました(二節)。これは、ただ一人の悪鬼ではなく、ただ一人の堕落した天使でもなく、邪悪な霊的勢力の集団です。これは、未信者たちの中で活動する、空中の霊です。そのような邪悪な霊的勢力の集団は、未信者たちの上にも内側にもあります。ですから末信者たちは、この世の時代にしたがって、また空中と彼らの内側にある霊的勢力にしたがって、死の中を歩いているのです。
それだけでなく、堕落した人々は肉の欲を持っており、それはこの世と、また空中の霊と協力します(二・三前半)。これが堕落した人類の状態です。
神がご自身を人の中へ注入し始める前に、人は堕落し、肉となりました。そしてこの世の時代にしたがって、またサタン、空中の勢力、堕落した人類の中で肉の欲によって活動している邪悪な者にしたがって、歩きました。
わたしたちは違犯と罪の中で死んでいたので、わたしたちはこの世の時代にしたがって、また空中の権威の支配者にしたがって歩いたので、またわたしたちは肉の欲の中で振る舞い、肉と思いの望むままを行なっていたので、わたしたちは生まれながら激怒の子でした(二・三後半)。
(ウィットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(上),254-256)
アダムの子孫が堕落してしまったので、神は入ってきて、アブラハムとそのすべての子孫を召し出されました。それはイスラエルの国家を形成するためです(創第十二章)。神の創造において、人類は幾つかの権利を持っていました。しかし、これらは人の堕落によって失われました。こういうわけで、神は一つの民、イスラエルを召し出され、彼らに国家としての権利を与えられました。国家とは、特定の市民権を持つ民を示します。神はイスラエルを召し出した時、失われた権利を回復し、イスラエルを神の祝福を享受する正当な権利を持つ国家とされました。その国家のために、神はある約束を与えられました。それは、神が彼らを支配すること、神が彼らを祝福すること、神が彼らの享受となることでした。これらの約束は、法的な形になって、イスラエルの人々に対する契約となりました。こういうわけで、旧約全体は、法的な形になった約束を伴う契約でした。そのような国家は異邦人を含んでいませんでした。
神がイスラエルを召して、神の国家とならせ、すべての約束を受けさせ、すべての権利を享受させた時、神は彼らに自分自身を割礼するように命じられました(創十七・十–十四)。神が召し出した人々は、堕落した人類の一部分であり、肉の中で、この世の時代にしたがって、空中にある、また彼らの内側にある邪悪な霊的勢力にしたがって歩き、また肉の欲によって歩いていたので、彼らは自分の肉を断ち切らなければならなかったのです。この肉を断ち切ることは、割礼によって象徴されました。割礼はその後、ユダヤ人と異邦人とを分離する一つの規定となりました。ユダヤ人は割礼の者と呼ばれ、異邦人は無割礼の者と呼ばれました。割礼の者たち、あるいは割礼された人々は、神に受け入れられて、神の民の国家の権利を享受し、すべての祝福を受けました。しかし、無割礼の異邦人は、イスラエルの国籍から除外され、契約についてはよそ者でした。ですから、彼らはこの世の中で神もなく、希望もない者でした(エペソ二・十二)。
この時点に至って、キリストはイスラエルの国家と完全に関係づけられていました。神はイスラエル国家の神でした。すべての祝福は、神の契約の中にありました。あなたがイスラエルの国籍から除外されている限り、あなたは神の国家から、キリストから、神の契約から、神の祝福から、いかなる希望からも、神ご自身からさえも、除外されていました。あなたはイスラエル国家の中ではなく、この世にいました。これが堕落した人類の状態です。また、これが救われる前のわたしたちの状態でした。
(ウィットネス・リー,神聖な三一の神聖な分与(上),256-257)
神聖な三一の分与
(1)御父の豊かなあわれみと大いなる愛
神はその選びの民を、高貴な、高い、大いなる愛をもって愛されたので、彼らを放棄しようとはされませんでした。彼の愛の内側には、彼のあわれみの豊富があります。愛は高い標準を維持しなければならないでしょう。しかし、あわれみには何の標準も必要ありません。あわれみはどのような状況の中のあなたにも届くことができます。愛はあわれみほど遠くまで届きません。あなたはあわれな人を愛しません。あなたは自分にふさわしい人を愛します。しかし、あなたの愛の内側には、あわれみがあるかもしれません。それは、さらに遠く、人々のあわれな状態まで届いて、彼らに愛をもたらすのです。
神はその大きな愛の中で、わたしたちを生かすために来られました(二・五)。あなたは、エペソ人への手紙第二章は、ローマ人への手紙の最初の区分と異なっていることに気づいたでしょうか? ローマ人への手紙の最初の区分では、わたしたちが義とされるために、取り扱われているのは、罪(単数)ともろもろの罪でした。しかし、エペソ人への手紙第二章では、死が取り扱われているのです。エペソ人への手紙第二章によると、わたしたちは単に罪人であっただけではありませんでした。わたしたちは死んだ人たちでした。死んだ人たちは、義とされること以上のものを必要とします。彼らは生かされる必要があります。こういうわけで、その大きな愛の中で、神はまずわたしたちを生かされました。神はキリストを死人の中から復活させた時、神はわたしたちを生かされたのです。神はあなたをある時に生かし、わたしを別の時に生かされたのではありません。神はキリストの復活において、わたしたちをみな同時に生かされたのです。
第二章五節で使われている「生かし」という述語のギリシャ語には、スン(sun)という接頭語がついています。この接頭語は、一緒に、共に、共同の、を意味します。神はわたしたちを一緒に生かしました。これは、使徒たちやわたしたちすべて、またこの時代に救われる最後の者さえも含んでいます。わたしたちはみな一緒に生かされました。ちょうどイスラエルの子たちが一緒に紅海を渡ったように、神はわたしたちすべてを一緒に生かしました。神はまた、わたしたちを死人の中から復活させました(六節)。なおまた、彼はわたしたちを高く上げ、わたしたちを天上で座らせてくださいました(六節)。これがエペソ人への手紙第二章で啓示された救いです。
(ウィットネス・リー,神聖な三一の神聖な分与(上),258-259)
何とすばらしい三重の救いをわたしたちは持っていることでしょう!わたしたちの救いにおいて、神はわたしたちを生かしてくださいました。神はわたしたちを一緒に復活させました。神はわたしたちをキリストと共に天上で座らせました。これがエペソ人への手紙に啓示されている救い、命の分与による救いです。
死んだ人は、その人の中に命を分与することによってのみ、生かされることができます。赦しだけでは、死んだ人を生かすことはできません。洗いも、死んだ人を生かすことができません。死んだ人には命の分与が必要です。いったん命が死んでいる人の中へ分与されるなら、彼は跳び上がることができます。彼は依然として汚れているかもしれませんが、彼は立って歩くことができるのです。彼を生かし、彼を死人の中から復活させるのは、命の分与です。
恵みによって救われることは、罪の赦しや、義とされることや、和解を受けることよりはるかに高いのです。それはわたしたちに命を分与してわたしたちを生かす救い、わたしたちを死人から復活させる救い、わたしたちを天へと高く引き上げ、そこに座らせる救いです。
そのような救いが神の傑作を生み出すことをエペソ人への手紙第二章十節が示しているのに、何の不思議もありません。十節は、わたしたちが神の作品であると言っています。作品に対するギリシャ語はまた、傑作と訳すこともできます。ここのギリシャ語はポイエーマ(poiema)であり、英語化されて英語となった言葉は詩(poem)です。わたしたちは神の詩です。詩はしばしば、その作者の知恵を表します。それは、彼の技能、芸術、構想を表現します。わたしたちは、源としての御父、経路としての御子、流れとしてのその霊の三重の命の分与によって書かれた詩です。この三重の命の分与はわたしたちを詩とします。わたしたちは、わたしたちの三一の神に、三重の命の分与による傑作です。
(ウィットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(上),258-259)
(2)御子の成就
わたしたちは罪と死の中で堕落しており、罪と死の領域の中を歩いてさえいました。しかし、神が来られて、わたしたちを生かし、わたしたちを死人の中から復活させ、わたしたちを高く上げて天上で座らせました。しかし、神はこれを直接なさったのではありません。あなたは、今までのところエペソ人への手紙第二章で御父が述べられていないことに気づきましたか? それらの節はただ神を述べるだけです。神はわたしたちをキリストと共に、一緒に生かされました。キリストなしには、神にはわたしたちを生かす方法はありません。神はわたしたちをキリストと共に復活させました。神はわたしたちをキリストと共に天上で座らせました。キリストは、神がわたしたちを生かし、復活させ、天上で座らせた手段、要素、領域です。キリストの外では、神にはこれら三つの事柄を成し遂げる方法がありませんでした。神がそれを行ないました。しかし、神は一つの経路を通して、キリストを通してそれを行なわれたのです。
神の経路として、キリストは多くの事を行なわれました。しかし、彼が行なったことはすべて、彼の血という事柄に要約することができます(二・十三)。血はキリストの驚くべき死の象徴です。彼の血を通しての贖いは、わたしたちを神に、また神のすべての祝福に近づけました(十三節)。かつてわたしたちは神から、神の国家であるイスラエルから、神の契約から、キリストから、すべての祝福から遠く離れていました。わたしたちは罪と死へと堕落したことによって、遠く離されていました。わたしたちはただキリストのすべてを含む死を象徴するキリストの血を通してのみ、近づくことができました。十字架上の彼の死によって、彼はわたしたちの罪(単数)ともろもろの罪とを取り去られました。
さらにまた、キリストは彼の死を通して隔ての中垣を取り壊し、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄し、彼ご自身の中で、二つのものを一人の新しい人へと創造することによって平和をつくりました(十四–十五節)。彼が数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄されたということは、彼が十戒を廃棄したという意味ではありません。ここの戒めの律法は、儀式上の戒めのことを言っているのであって、両親を敬うこと、人殺しや偶像礼拝を禁じることを取り扱っているような道徳上の律法のことを言っているのではありません。これらの律法は決して廃棄されていません。同様に、偶像礼拝を禁じる律法も廃棄されてはいません。倫理上の、道徳上の律法は、決して廃棄されていません。しかし、食物、聖日、割礼に関するような、儀式上の戒めは廃棄されました。儀式や数々の規定から成る戒めは、ついにはユダヤ人と異邦人とを分け隔てる高い障壁になりました。
キリストが十字架上で死なれた時にこれらすべての規定を十字架に釘付けにしたことを認識しているクリスチャンは多くいません。キリストは十字架上の彼の死によって、わたしたちの古い人、わたしたちの肉を十字架につけ、サタン、死の力を滅ぼしただけではありません。彼はまた、割礼、安息日を守ること、食物に関する規定を含むすべての規定を、十字架につけました。彼は数々の規定から成っている戒めの律法、すなわちユダヤ人と異邦人とを分け隔てた中垣を、廃棄されました。
さらにまた、種の命がその殻の内側に閉じ込められているように、キリストの内側に閉じ込められていたキリストの神聖な命を、十字架上のキリストの死は解き放しました。彼が十字架に釘づけられたことは、その殻を破り、彼の内側に閉じ込められていたその命を解き放して、召会を産出しました。
キリストは彼のすべてを含むすばらしい死によって、ユダヤ人信者と異邦人信者との両方を一人の新しい人へと創造しました(二・十五)。この一人の新しい人は組織ではなく、命に満ちた有機体です。今日、諸召会の中にはユダヤ人の聖徒たちが多くいます。しかし、キリストは数々の規定から成る戒めの律法を廃棄されたので、またわたしたちはみな神聖な命の分与を持っているので、わたしたちは一です。わたしたちはみな、わたしたちの中へ分与された神聖な命を持っています。命の分与はわたしたちを変化させるだけではありません。それはわたしたちを造り変えます。召会は神聖な命の分与の結果です。わたしたちは神の分与によって造り変えられつつあります。わたしたちはみな、再教育された人たちではなく、造り変えられた人たちでなければなりません。わたしたちは神聖な三一の神聖な命の神聖な分与によって、造り変えられなければなりません。
十字架上でキリストは驚くべき事をなさいました。彼の死はすべてを含みました。十字架を通して、彼は罪(単数)ともろもろの罪を取り除かれました。彼はサタンを滅ぼしました。彼はこの世を裁かれました。彼は数々の規定の中に含まれていたすべての儀式上の律法を廃棄されました。最後に彼は、神の選びの民の中へ彼の神聖な命を解き放されました。そして、彼らを一人の新しい人へと創造して、神聖な命の分与による神聖な要素から構成された有機体としました。今や、ユダヤ人と異邦人の両者は、十字架を通して一つのからだの中で神へと和解させられました(十六節)。
キリストはこれらすべてを、彼のすべてを含む死によって成就した後、やって来て、福音を宣べ伝えました(二・十七)。彼は十字架につけられ葬られた後、どのようにしてわたしたちに福音を宣べ伝えることができたのでしょうか? その答えは、彼が復活して、わたしたちに内住する命を与える霊と成られたということです(1コリント十五・四五後半)。わたしたちか他の人たちに福音を宣べ伝える時、イエスもまた宣べ伝えておられることを認識する必要があります。彼は死んで復活し、命を与える霊と成られた後、最高の福音、新しい人の福音、平和をつくる命の分与の福音を宣べ伝えるために、戻って来られて、わたしたちの内側におられるのです。
その霊によって近づく
キリストが命を与える霊としてのご自身によってそのような福音を宣べ伝えられる時、またわたしたちがそのような福音を聞いて受け入れる時、わたしたちは何を受けるのでしょうか? わたしたちが受ける主要なものは、命を与える霊です。ほとんどのクリスチャンはこれを認識していません。わたしたちは福音を受け入れる時、おもに、もろもろの罪の赦しや義とされることを受けると思ってはなりません。そのような福音を受け入れることによってわたしたちが受け入れるおもなものは、その霊です。仮に、末信者が、「主イエスよ、あなたに感謝します。あなたはわたしの救い主です。わたしはあなたを受け入れます。主よ、わたしの心に入ってきてください」と言ったとします。直ちに、宣べ伝える方であるキリストは、その霊としてその人の中に入られます。そして彼はその霊を受けるのです。ですから、十八節はその霊に関して、「それは、わたしたち両者がキリストを通して、一つ霊の中で、父へと近づくことができるためです」と言うのです。
今やわたしたちはその霊を持っており、またその霊の中にいます。そして、その霊はわたしたちを源なる父にもたらします。
エペソ人への手紙第二章は、神がわたしたちを愛し、生かし、復活させ、天上で座らせ、わたしたちを彼の詩、彼の傑作とすることを、わたしたちに告げています。これを行なったのは、源なる御父であり、経路である御子キリストを通して行なわれたのです。前のメッセージでわたしたちは、御子が来られたとき、彼は御父の名の中で来られたこと(ヨハネ五・四三)、彼は御父と共に来られらこと(ヨハネ八・二九、十六・三二)、御子は御父とさえ呼ばれたこと(イザヤ九・六)を指摘しました。御父はすべてのことを計画された源であり、御子は御父のご計画を成就した手段、経路です。キリストは、神がその中で、またそれによってわたしたちを生かし、復活させ、天上で座らせた経路、また手段となられました。
エペソ人への手紙第二章は、父としての神と子としてのキリストを啓示します。彼の死と復活の後、子なるキリストは、その霊として、福音を宣べ伝えるために来られました。その霊が来られた時、彼は御父と共に(ヨハネ十五・二六とノート二六の一)、御子の名の中で来られました。それは、その霊が来られた時に御子が来られたことを意味します。こういうわけで、御子がわたしたちに福音を宣べ伝えるために来られる時、その霊もまた来られるのです。わたしたちが御子を彼の宣べ伝えにおいて受け入れる時、わたしたちはその霊を受け入れるのです。その霊はそれから、御子を通して、その霊の中で、わたしたちに来られました。今やその霊は御子を通して、わたしたちを御父のもとに連れ戻されます。このすばらしい両方向の交流を通して、わたしたちは三一の神による命の三重の分与を享受するのです。
(ウィットネス・リー, Divine Trinity, 163-164)
2. 三一の神の内住(エペソ第3章)
エペソ3:14 こういうわけで、わたしは父に向かってひざをかがめて祈ります.
エペソ3:16–19 どうか父が、彼の栄光の豊富にしたがい、力をもって、彼の霊を通して、あなたがたを内なる人の中へと増強してくださいますように.また、キリストが信仰を通して、あなたがたの心の中に、ご自身のホームを造ることができますように.またあなたがたが、愛の中に根ざし土台づけられ、力に満たされて、全ての聖徒たちと共に、その広さ、長さ、高さ、深さが何であるかを会得し、<3:19>そして知識を超越したキリストの愛を知ることができるように.また、あなたがたが満たされて、3神の全豊満2へと至るように。
3:19ノート2 キリストがわたしたちの心の中に彼のホームを造られる時、そしてわたしたちが力に満たされて、すべての聖徒と共にキリストの大きさを把握し、経験によって知識を超越した彼の愛を知る時、わたしたちは満たされて神の全豊満へと至るでしょう。この全豊満は召会であり、神の団体の表現であって、それは彼のみこころを成就するためです。
「神の全豊満」は、神である全ての豊富が、彼の表現となったことを暗示します。神の豊富が神ご自身の中にある時、それは神の豊富です。しかし神の豊富が表現される時、それは彼の豊満となります(ヨハネ1:16)。3:19ノート3 父(14節)は、その霊(16節)を通して、御子キリスト(17節)が、わたしたちの心の中に彼のホームを造ることができるように、という使徒の祈りに答えて、成就されます。こうして、わたしたちは神の、すなわち三一の神の豊満へと満たされます。これは、わたしたちの全存在の中へと、三一の神が分与された結果です。
神聖な三一の分与
(1)御父は彼の栄光の豊富にしたがい、力をもって増弱する
指導的な執事であるパウロは、神聖な三一の神聖な分与のために祈りました。第一に、彼は御父に向かってひざをかがめると言いました(十四節)。これは、彼が源に向かって訴えたことを意味します。彼が御父に向かってひざをかがめたのは、神が信者たちを彼の栄光の豊富にしたがい、力をもって、彼の霊を通して、内なる人の中へと増強してくださるためでした(十六節)。わたしたちの内なる人とは、その霊によって再生され、またその霊とミングリングされた、わたしたちの霊です。
(2)その霊を通して
御父がそれを通してわたしたちを増強するその霊は、わたしたちの霊の中におられます。彼はわたしたちの霊の中に住んでおられるだけでなく、わたしたちの霊とミングリングされてさえいます。ローマ人への手紙第八章十六節は、「その霊ご自身、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子供たちであることを証ししてくださいます」と言います。「証しして」という語は非常に重要です。その霊はわたしたちの霊と共にあります。これはミングリングを示します。わたしたちの内なる人は、すばらしいミングリングされた霊です。これはコリント人への第一の手紙第六章十七節の、「しかし、主に結合される者は主と一つ霊です」と一致します。どのようにしてわたしたちは主と一つ霊であり得るのでしょうか? それはただ、その霊としての主がご自身をわたしたちの霊とミングリングしてくださることによります。神聖な霊はわたしたち人の霊とミングリングされて、一つ霊となられました。これはすばらしいです! 御父はその霊を通して、わたしたちを内なる人の中へと増強されます。
(3)わたしたちの内なる人の中へと、すなわちわたしたちの再生されてミングリングされた霊の中へと
神の栄光の豊富にしたがい、力をもって、その霊を通して、わたしたちの内なる人の中へと増強されるとは、どういう意味でしょうか? わたしたちの経験を考えてみましょう。何度となくわたしたちクリスチャンは煩わされ、当惑させられ、さらには失望さえさせられました。環境を見れば見るほど、わたしたちの状況を考えれば考えるほど、ますますわたしたちは自分が貧弱であり、前進することができないことを感じます。わたしたちは、何か大きな事が起こってわたしたちを復興させてくれるまで、集会には行くまいと感じるかもしれません。このように考えれば考えるほど、ますますわたしたちは弱くされます。このように考えれば考えるほど、ますますわたしたちは自分のこうかつな、欺きの、欺かれさえした知性の中にとどまるのです。
仮に、金曜日の夕方、仕事から帰宅した時、あなたは憂うつで、失望しているとします。惨めな一日でした。何一つうまくいきませんでした。帰宅した時、あなたは妻や子供に対しても幸いではありません。あなたの部屋でさえ、あなたにとっておもしろく見えません。あなたの状況を考えれば考えるほど、ますますそれは悪く見えます。そのような時、あなたはパウロの言葉を思い出す必要があります、「わたしは父に向かってひざをかがめて祈ります……どうか父が……力をもって、彼の霊を通して、あなたがたを内なる人の中へと増強してくださいますように」。それから、あなたは宣言すべきです、「サタンよ、わたしから退け! わたしは内なる人の中へ入り込みます」。もしあなたが内なる人の中へ戻るなら、あなたは奮い立たせられ、増強されるでしょう。もしさらに進んで二、三分も祈るなら、あなたはさらに一層増強されるでしょう。この増強はあなたの肉体の弱さや疲労を飲み尽くしさえします。
わたしはあなたにこのように実行することを勧めます。あなたはどのように感じようとも、訣して自分は弱いとか、疲れているとか言ってはなりません。姉妹たちよ、あなたの夫が仕事から帰宅して、疲れたと言う時、あなたは彼に、疲れていると言わないように命じ、父に向かってひざをかがめて、力をもって内なる人の中へと増強されるようにと命じるべきです。あなたが疲れたと言う時、あなたは自分の古い人、自分の外なる人、自分の知性の中にいるのです。あなたは内なる人の中へと増強される必要かあります。外なる人の中にとどまっていてはなりません。あなたは疲れているでしょうが、彼は疲れてはいません。あなたの内側に生きておられる彼は、あなたよりはるかに強いのです。彼は決して疲れません。彼はあなたを内なる人の中へと増強してくださいます。
「内なる人の中へと」という句の中で、「の中へと」という語が非常に重要です。わたしたちが内なる人の中へと増強される必要があると言うのは、わたしたちが内なる人の中にいないこと、わたしたちがたいてい外なる人の中に生きていることを示します。一人の兄弟が疲れたと妻に言う時、彼は外なる人の中に、思いの中にいるのであって、肉体的な疲労にしたがって生きているのです。こういうわけで、彼は自分の妻にあわれみを求めるのです。姉妹たちよ、あなたの夫に同情してはなりません。彼が疲れたと言う時、彼が御父に向かってひざをかがめるように勧めなさい。そうすれば、御父が力をもって、その霊を通して、彼を内なる人の中へと増強してくださるでしょう。
あなたは疲れたと言う時、内なる人の外側にいるのです。あなたは内なる人を持っています。なぜそこにとどまっていないのですか? どうしてあなたの疲れの中にとどまっているのですか?あなたは自分の疲れから、あなたの内なる人の中へと、御父があなたを増強してくださるようにと、御父にひざをかがめることを実行する必要があります。わたしたちは病気の時でさえ、御父がわたしたちの病からわたしたちの内なる人の中へとわたしたちを増強してくださるようにと、祈る必要があります。
一つの例証として、結婚生活を用いてもよいでしょう。しばしば結婚生活は甘くはなく、それどころかそれは幾らか苦いかもしれません。わたしたちの結婚生活は、わたしたちが内なる人の中へと増強される時だけ甘く、幸いであり得るのです。時には、夫が仕事に行った後、姉妹は彼がどのように自分をあしらってきたかを考え始めるかもしれません。おそらく昨夜、彼は彼女に対して幸いでなかったでしょう。そして今朝、彼は、彼女がある事で間違っていると言ったことでしょう。それから彼女は、自分が間違っているのか正しいのかを考え始めるかもしれません。これらのことを考えれば考えるほど、ますます彼女は内側に暗さを持つことでしょう。これは、彼女が外なる人の中に、彼女の知性の中にいることを示します。この種の状況において助けとなり得る唯一のことは、内なる人の中へと増強されることです。彼女は自分の知性、自分の思い、自分の考えの中にとどまっているべきではありません。もしわたしたちかそのような状況の中にいるのでしたら、わたしたちは自分の思いから内なる人の中へと増強され、わたしたちの霊に戻って祈る必要があります。もしあらゆる状況の中でこれを実行するなら、わたしたちは強いクリスチャンになるでしょう。この実行を通して、神聖な分与は、神聖な三のすべての豊富をわたしたちに注入する道を持つのです。
(4)御子キリストはご自身のホームを造る
わたしたちが内なる人の中へと増強される時、キリストはわたしたちの心の中にご自身のホームを造ることができます(十六–十七節)。キリストがわたしたちの心の中にご自身のホームを造られるということは一大問題です。これはわたしたちの内側の存在の中に、彼ご自身を全く定住させることです。わたしたちの心は四つの部分から成っています、感情、意志、思い、良心です。キリストがわたしたちの心の中にご自身のホームを造られることは、彼がわたしたちの感情、意志、思い、良心の中に彼ご自身を安住させなければならないことを意味します。これはキリストがわたしたちの存在のあらゆる部分を占有する必要があるという意味です。
わたしたちの心は多くの部屋のある一つのアパートに比べてもよいでしょう。一つの部屋は思いであり、他の部屋は意志、感情、また良心です。わたしたちは主を信じました。そして内側に彼を持っています。しかし、彼は依然としてわたしたちの心の中にご自身のホームを造る必要があります。パウロがエペソ人たちのために祈ったのは、キリストが彼らの心の中にご自身のホームを造る道を持たれるようにということでした。わたしたちは一般的な方法でキリストをわたしたちの中に持っています。しかしわたしたちは特別な方法では、わたしたちの思い、感情、意志、良心に浸透飽和しているキリストを持っていないかもしれません。
わたしはしばしば旅行をします。そして多くの時、わたしは客として一つの部屋に導かれます。しばしばそこの主人は気楽にしてくださいと促すでしょう。しかし接待を受けている一人の客として、わたしは決して家にいるという感じを持ちません。わたしはただ一時的にそこにとどまっているにすぎないのです。わたしはその場所に落ち着くことができません、それはわたしのホームではないからです。
キリストはわたしたちの心の中にご自身のホームを造り、わたしたちの心のあらゆる部分を占有することを願われます。彼はわたしたちの内なる存在のあらゆる部分を占有したいのです。わたしたちの内側の存在はキリストで浸透飽和され、所有され、占有され、満たされなければなりません。もしキリストがわたしたちの心の中にご自身のホームを造られたなら、もし彼がわたしたちの心のあらゆる部屋を占有されたなら、わたしたちは弱くはないでしょう。それどころかわたしたちは聖い、また霊的な生活をさえする人たちであるでしょう。しかしながら、あまりにも多くのとき、わたしたちはわたしたちの霊的生活において自分が強いと感じません。その理由はわたしたちは極めて一般的な方法で、わたしたちの中にキリストを持っているということです。多分あなたはあなたの「居間」の片隅にキリストを受け入れただけでしょう。あなたは彼に他の部分へと移動する自由を与えていません。その結果は、あなたが弱いということです。あなたはキリストを持っています。しかし、あなたは依然として弱いのです。なぜなら、あなたはキリストで浸透飽和されていないからです。あなたはあなたの全存在に浸透飽和するよう、あなたの思い、感情、意志、また良心の中への命の分与が不足しているのです。しかしもしあなたが、あなたの内側の存在のあらゆる部分、すなわちあなたの思い、感情、意志、良心において、命の分与を通して、キリストによって徹底的に浸透飽和されているなら、あなたは強いでしょう。あなたは真に主と一つであるでしょう。これが、指導的執事、神の恵みの分配者としてのパウロの到着点でした。彼は彼の務めの下にあるすべての聖徒たちが命の神聖な分与で浸透飽和され、彼らの内側の諸部分において、キリストによって全く占有されることを願いました。こういうわけで、彼は彼らが神の栄光のもろもろの豊富に従ってその霊を通し、力をもって増強されるようにと、父に向かってひざをかがめました。それはキリストが彼らの心の中にご自身のホームを造ることができるためでした。
神聖な分与の結果
神の全豊満へと満たされる
キリストがわたしたちの心の中にご自身の住まいを造られる時、わたしたちは神の全豊満をもって満たされるのではなく、彼の全豊満へと満たされるでしょう(三・十九)。もしわたしたちが、キリストにわたしたちの心の中にご自身のホームを造っていただくなら、わたしたちは彼の全き表現となる程度にまで、神たる方、三一で満たされるでしょう。
ここの豊満はもろもろの豊富を意味するのではありません。それはもろもろの豊富の表現、現れを示します。例えば、カップに水を満たす時、水がカップのふちまでいっぱいになってあふれ流れてはじめて、あなたは水の豊満を見ることができます。あふれ流れることが水の豊満です。水の豊満としてのあふれ出は、水の表現です。しかしもし少量の水しかカップに入っていなかったなら、だれもその水を見ることはできません。同様に、わたしたちはその霊を通して増強されなければなりません。その結果、キリストがわたしたちの心の中にご自身のホームを造られ、わたしたちをふちまで満たし、わたしたちの内なる存在からあふれ流れるほどまでにならなければなりません。わたしたちの存在の内側からキリストがあふれ流れる程度にまでわたしたちか満たされる時、わたしたちは神の豊満、神の表現となります。そのとき他の人たちは、神がわたしたちの内側からあふれ出ているのを見ることができるでしょう。このあふれ出こそが神の全き表現です。この思想は第一章で述べられているものより一層高く、深く、豊かでまた深遠です。第一章はキリストの豊満について語っています(二三節)。しかし第三章は神の豊満について語っており、そしてそれはさらに広く、さらに豊かなのです。
(ウィットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(上), 274-283)
満たされて三一の神の表現へと至る
エペソ人への手紙第三章の、神の豊満という結果になる神のエコノミーに関するこれらの節で、わたしたちは三一の神を見ます。父(十四節)は、その霊(十六節)を通して、御子キリスト(十七節)が、わたしたちの心の中にご自身のホームを造ることができるようにという使徒の祈りに答えて、成就されます。こうして、わたしたちは満たされて、三一の神の豊満へと至ります。これは、三一の神をわたしたちの全存在の中に分与して、わたしたちが神の表現となることです。
エペソ人への手紙第三章によれば、三一の神は教理上の討論の題目ではありません。彼はご自身を信者たちの中に分与するためです。それは、彼らが満たされて、御父だけでなく、御子だけでもなく、その霊だけでもなく、「神」の豊満へと至るためです。パウロは、父が彼の霊を通してわたしたちを増強してくださり、キリストがわたしたちの心の中にご自身のホームを造り、こうしてわたしたちの内側の各部分を完全に占有され、その結果わたしたちが満たされて、三一の神の表現へと至るようにと祈りました。何という栄光、何というすばらしさでしょう! これが神のエコノミー、神の分与です。これはまた神の新約の啓示、わたしたちの務め、主の回復です。
(ウィットネス・リー, 新約ライフスタディ エペソ人への手紙(ニ)、111-112)
本ページ及び本ページにリンクされている記事はChristian Web Sites掲載のWitness Lee: Quotes on the Triune Godに基づいて構成されています。本ページに掲載されている内容の無断転載を禁じます。掲載されている書物および回復訳聖書の抜粋はliving Stream Ministryに著作権があり、JGW日本福音書房から許可を受けて掲載しています。