三一の神・目次>第九章 書簡の中で啓示されている三一の神(一)
1. 信者の中にいる三一の神(ローマ第8章)
ローマ8:9 しかし、確かに神の霊があなたがたの中に住んでいるなら、あなたがたは肉の中にいるのではなく、霊の中にいるのです。もしだれでもキリストの霊を持たないなら、その人はキリストのものではありません。
8:10 しかし、キリストがあなたがたの中におられるなら、体は罪のゆえに死んでいても霊は義のゆえに命です。
8:11 そして、イエスを死人の中から復活させた方の霊が、あなたがたの中に住んでいるなら、キリスト・イエスを死人の中から復活させた方は、あなたがたの中に住んでいる彼の霊を通して、あなたがたの死ぬべき体にも、命を与えてくださいます。
ローマ人への手紙第八章における三一の神
わたしたちが言っている霊は、その霊です。すなわち、手順を経て命を与える霊と成られた三一の神です。この三一の神は、メッセージのタイトルのように、三部分から成る人に浸透します。ローマ人への手紙第八章九節を見てください。ここに三一の神を見ます。「しかし、確かに神の霊があなたがたの中に住んでいるなら、あなたがたは肉の中にいるのではなく、霊の中にいるのです。もしだれでもキリストの霊を持たないなら、その人はキリストのものではありません」。注意してください。ここに神、キリスト、その霊、すべてが述べられています。しかし、この節は教理的に述べられているのではなく、わたしたちの経験のためです。キリスト教が提示している方法とは違って、わたしたちが言うように三一は教理ではありません。神はわたしたちが経験するために三一でなければなりません。神、キリスト、その霊は、すべてわたしたちの経験上のことです。
(ウィットネス・リー,ライフメッセージ(四),10-11)
(1)三一に関する誤った観念
三一に関する伝統的説明は全く不十分で、三神論に近いものです。神の霊がわたしたちに結合される時、神は残っておられ、キリストも御座に残っているのではありません。これはキリスト教が与えている印象です。彼らは一人のパースンである御父が、贖いを達成するため別のパースンである御子を遣わし、その後、御子は別のパースンであるその霊を遣わされると考えています。伝統的な考えでは、その霊は信者の中に入って来られますが、御父と御子は御座に残っておられます。信者が祈る時、御父の前にひざをかがめ、御子の名の中で祈るように教えられます。神格を三つのパースンに分けることは、聖書の啓示ではなく、ニケア信条の教理です。
わたしがローマに行った時、ヴァチカンで二枚の絵を見ました。一つはひげを生やした老人が座っていて、その横に若者が立っており、その上にはとが飛んでいる絵でした。この絵は三一の神の三つのパースンを表すものであるという説明でした。そのすぐ隣によく似たもう一つの絵がありました。それは老人が座っており、若者が立っていて、はとが上を飛んでいるのですが、そこに一人の若い女性が立っている絵でした。ここにはマリヤを含めた四人がいたのです! わたしたちはそれらに地位がなくなるまで、このような教えに反対して戦うべきではないでしょうか?
(2)一における三
ヨハネによる福音書第十四章で明らかに言っているように、御子は御父の中におられ、御父は御子の中におられます(十、十一節)。御子を見ることは御父を見ることです。御子が語られる時、働かれるのは御父です。この二は分離できません。聖書はさらに、死と復活の後、御子はその霊と成られたと言っています(Iコリント十五・四五後半)。御父の中におられる御子はその霊と成られました。こうして三一の神は罪人に入ることができます。その霊と共に御子が来られ、御子が来られる時、御父も来られます。
三一という言葉は一における三です。一つの面から三があります。しかし、別の面から彼らは一です。なぜなら三は分離することができないからです。
パウロがローマ人への手紙第八章九節と十節で用いている三つの用語に注目してください。彼は「神の霊」があなたがたの中に住み、「キリストの霊」がなければ、あなたがたは彼のものでない、また「キリスト」があなたがたの中におられると言います。なぜパウロは同じ方に言及して三つの言い方をしているのでしょうか? なぜならこの方には三の面があるからです。すなわち、御父の面、御子の面、その霊の面があります。
(ウィットネス・リー,ライフメッセージ(四),11-12)
交換することのできる用語
パウロは神、神の霊、キリストの霊という用語を、交換できるように用いています。彼は神で始め、神の霊に進み、さらにキリストの霊に進みます。しかしここで止まらないで、パウロは十節でキリストについて語り、キリストはわたしたちの中におられると言います。数節の間に、神、神の霊、キリストの霊、キリストという四つの神聖な称号が、交換できるように用いられています。この四つの用語は一つの存在、三一の神ご自身を指します。
神の霊は神ご自身です。この称号は、その霊が神と異なるものであることを意味すると、解釈してはなりません。新約で、神の愛、神の命というような句は、愛や命が神ご自身であることを意味します。同じ原則で、神の霊という句は、その霊が神であることを意味します。キリストの霊についても同じです。この称号は、その霊がキリストであることを意味します。文脈によれば、キリストの霊は神の霊です。
パウロは、キリストの霊からキリストに進みます。こうして、パウロはわたしたちを、神の霊とキリストの霊を通して、神からキリストに連れて行きます。パウロの思想は、神から神の霊へ、神の霊からキリストの霊へ、キリストの霊からキリストへ進みます。ですから、神、神の霊、キリストの霊、キリストがあります。しかしながら、これら四つの用語はすべて、唯一の三一の神のことを言っています。
(ウィットネス・リー, 新約ライフスタディ ローマ人への手紙(二), 359)
わたしたちの中のキリスト
十節はキリストがわたしたちの中におられると言います。ここの前置詞「の中に」は、大いに注目する価値があります。すばらしい方キリストが、実はわたしたちの中におられるのです! キリストがわたしたちの中におられるために、神は神の霊でなければならず、神の霊はキリストの霊でなければならず、キリストの霊はキリストでなければなりません。もし神がただ神ご自身であるだけであるなら、わたしたちの中に入ることはできなかったでしょう。これには二つの理由があります。第一は、神が神聖で、無限で、全能であることです。しかしながら、わたしたちは人ですから、神は人の仲介なしに、わたしたちの中に入ることはできません。第二は、わたしたちが罪深く汚れていることです。堕落のゆえに、わたしたちのあらゆる部分は汚れています。聖なる神がそのような罪深い人の中に住むことは不可能です。神性と人性との間隙を橋渡しするために、神はイエスという名の人とならなければなりませんでした。イエスはエホバ救い主を意味します。そのような方として、彼はわたしたちの罪のために十字架上で死に、彼の血を流して、わたしたちをすべての汚れから清められました。ハレルヤ、無限の神が有限な人となって、わたしたちのために十字架上で死なれました。これは神が人の中に入るのを妨げる障害を取り除きました。今やキリストにあって無限なる神が、わたしたちの中に入ることができます。こういうわけで、十節でパウロは、キリストはわたしたちの中におられると言明するのです。
神がわたしたちの中におられると言わないで、キリストがわたしたちの中におられるとパウロが言っていることは、意義深いです。こののその霊は、神とキリストを結び付けます。その霊は、神の霊とキリストの霊の両方です。これらすべての用語は何と深遠で、無尽蔵なことでしょう!
(ウィットネス・リー, 新約ライフスタディ ローマ人への手紙(二), 360-361)
その霊がわたしたちの中にホームを造る
十一節は言います、「そして、イエスを死人の中から復活させた方の霊が、あなたがたの中に住んでいるなら、キリスト・イエスを死人の中から復活させた方は、あなたがたの中に住んでいる彼の霊を通して、あなたがたの死ぬべき体にも、命を与えてくださいます」。十節によれば、キリストはわたしたちの中におられます。しかし十一節によれば、イエスを死人の中から復活させた方の霊が、わたしたちの中に住んでおられます。すなわち、彼の霊がわたしたちの中にホームを造られます。この節には三一の神があります。すなわち、イエスを死人の中から復活させた方(御父)、キリスト・イエス(御子)、その霊です。ここで、三一の神がご自身をわたしたちの中に分与されるのを見ます。さらに、彼はわたしたちの中にホームを造り、わたしたちの死ぬべき体に命を与えつつあります。これは三一の神をわたしたちの全存在に完全に分与することです。
(ウィットネス・リー, 新約ライフスタディ ローマ人への手紙(二), 361)
2. 三一の神を享受する(IIコリント13:14)
2コリント13:14 主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にありますように。
A THREEFOLD BLESSING
In 13:14 we have a threefold blessing: “The grace of the Lord Jesus Christ, and the love of God, and the fellowship of the Holy Spirit be with you all.” This threefold blessing involves the Triune God, for here we have the grace of Christ the Son, the love of God the Father, and the fellowship of the Holy Spirit.
In the Old Testament we also have a threefold blessing, the blessing pronounced by the Levitical priesthood at the end of Numbers chapter six. In this threefold blessing the Triune God is implied. Numbers 6:24-26 says, “The Lord bless thee, and keep thee: the Lord make his face shine upon thee, and be gracious unto thee: the Lord lift up his countenance upon thee, and give thee peace.” First we have the blessing related to the Father. “The Lord bless thee, and keep thee.” Second, we have the blessing related to the Son: “The Lord make his face shine upon thee, and be gracious unto thee.” Third we have the blessing related to the Spirit: “The Lord lift up his countenance upon thee, and give thee peace.” The Levitical priests surely treasured this blessing. However, it cannot be compared with the blessing in 2 Corinthians 13:14. What we have in Numbers 6:24-26 is a mere blessing, that is, a blessing without enjoyment. But in 13:14 what we have is not only a blessing; we have God in His Triune Godhead, the Father, the Son, and the Spirit.
(ウィットネス・リー, LS of 2 Corinthians, 523)
THE TRIUNE GOD AS OUR UNIQUE BLESSING
To speak of the love of God, the grace of Christ, and the fellowship of the Holy Spirit is actually to say that the love is God, that the grace is Christ, and that the fellowship is the Holy Spirit. Thus, we have God the Father as love, we have God the Son as grace, and we have God the Spirit as fellowship. This means that we have the Triune God in a direct way as our enjoyment. What we have is not merely a blessing from Him or by Him.
In the New Testament the real blessing is the Triune God Himself. As we have pointed out, this blessing is threefold, a blessing of grace, love, and fellowship. With love as the source, grace as the course, and fellowship as the transmission, the Triune God reaches us to be our life, our life supply, and our enjoyment. Now in a practical way we can enjoy the Triune God all day long. This is our unique New Testament blessing.
THREE ASPECTS OF ONE THING
The grace of the Lord is the Lord Himself as life to us for our enjoyment (John 1:17; 1 Cor. 15:10), the love of God is God Himself (1 John 4:8, 16) as the source of the grace of the Lord, and the fellowship of the Spirit is the Spirit Himself as the transmission of the grace of the Lord with the love of God for our participation. These are not three separate matters, but three aspects of one thing, just as the Lord, God, and the Holy Spirit are not three separate Gods, but three “hypostases…of the one same undivided and indivisible” God (Philip Schaff). The love of God is the source, since God is the origin; the grace of the Lord is the course of the love of God, since the Lord is the expression of God; and the fellowship of the Spirit is the impartation of the grace of the Lord with the love of God, since the Spirit is the transmission of the Lord with God, for our experience and enjoyment of the Triune God—the Father, the Son, and the Holy Spirit, with Their divine virtues. Here the grace of the Lord is mentioned first, because this book is on the grace of Christ (2 Cor. 1:12; 4:15; 6:1; 8:1, 9; 9:8, 14; 12:9). Such a divine attribute of three virtues—love, grace, and fellowship—and such a Triune God of the three divine hypostases—the Father, the Son, and the Spirit—were needed by the distracted and confused, yet encouraged and restored, Corinthian believers. Hence, the apostle used all these divine and precious things in one sentence to conclude his lovely and dear Epistle.
(ウィットネス・リー, LS of 2 Corinthians, 524-525)
THREE HYPOSTASES
In the preceding paragraph we twice used the word hypostases. This word requires further explanation. The singular form of the word is hypostasis. It is anglicized from the Greek. It is composed of two Greek words: hupo, a preposition that means under, and stasis, a word that means supports or stands forth. Hence, this word refers to a support under, a support beneath, that is, something underneath that supports. The Greek word hupostasis is used in 9:4 and 11:17. This word means the groundwork on which some superstructure is founded; hence, foundation, ground; thence, as in 9:4 and 11:17, confidence. If we have the proper groundwork or support underneath, we then can have confidence.
Some dictionaries associate the word hypostasis with the three Persons of the Trinity. This meaning of the word, given in certain dictionaries, is an interpretation. The word hypostasis does not mean person. But theologians have used it to refer to the three Persons of the Godhead, to the Father, the Son, and the Spirit. Actually, the Father, Son, and Spirit are three hypostases, that is, supporting substances of the Godhead. In other words, the Godhead is composed of the supporting substances of the Father, the Son, and the Spirit. This means that if these three hypostases were taken away, the Godhead would lose its substance.
Certain ancient teachers of the Bible used the word hypostases to refer to the Father, the Son, and the Spirit. Other theologians spoke of the three hypostases as denoting the three Persons of the Godhead. This use of the word person has led some into the error of tritheism, the doctrine that the Father, the Son, and the Spirit are three Gods. As we have pointed out a number of times, W. H. Griffith Thomas has said that we should not press the word person too far, lest we have the doctrine of tritheism. Thus, it is not entirely safe to use the word person in this way. Nevertheless, we may need to use it temporarily. For instance, we use it in one of our hymns (Hymns #608): “What mystery, the Father, Son, and Spirit, in Person three, in substance all are one.” But even if we use this term temporarily, we wish to make it emphatically clear that we have only one God, the unique God. Nevertheless, God is triune: the Father, the Son, and the Spirit. The term hypostases is an attempt to convey the truth of the three-one God.
(ウィットネス・リー, LS of 2 Corinthians, 525-526)
THE TRIUNE GOD DISPENSING HIMSELF INTO MAN
Second Corinthians 13:14 is a strong proof that the trinity of the Godhead is not for the doctrinal understanding of systematic theology, but for the dispensing of God Himself in His trinity into His chosen and redeemed people. In the Bible the Trinity is never revealed merely as a doctrine. It is always revealed or mentioned in regard to the relationship of God with His creatures, especially with men created by Him, and even more with His chosen and redeemed people. The first divine title used in His divine revelation concerning His creation, Elohim in Hebrew, is plural in number (Gen. 1:1). This implies that He, as the Creator of the heavens and the earth for man, is triune. Concerning the creation of man in His own image, after His own likeness, He used the plural pronouns, “us” and “our,” referring to His trinity (Gen. 1:26) and implying that He would be one with man and express Himself through man in His trinity. Later, in Genesis 3:22 and 11:7 and Isaiah 6:8, He referred to Himself again and again as “us” concerning His relationship with man and His chosen people.
(ウィットネス・リー, LS of 2 Corinthians, 526)
三一の神の享受
(1) 恵みと愛と交わり
第十三章十四節でわたしたちは三一の神の享受を見ます。この節でパウロはいいます、「主イエスの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にありますように」。主の恵みは、わたしたちの享受のための、わたしたちの命としての主ご自身であり(ヨハネ一・十七、Iコリント十五・十)、神の愛は、主の恵みの源としての神ご自身であり(Iヨハネ四:八、十六)、聖霊の交わりは、わたしたちがあずかるための、神の愛を伴う主の恵みの伝達であるその霊ご自身です。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりは、三つの分離した事柄ではなく、実は一つの事の三つの面です。ちょうど主、神、聖霊が、三つの分離した神ではなき、「一つの同じ、分けられてもいなければ、また分けることもできない三つの実質(ハイポスタシーズ)」(フィリップ・シャフ)であるようにです。神の愛は源です。なぜなら、神がその起源だからです。主の恵みは、神の愛の経路です。なぜなら、主は神の表現であるからです。その霊の交わりは、主の恵みを神の愛と共に分け与えることです。なぜなら、その霊は、主を神と共に伝達することであるからです。それはわたしたちた三一の神、すなわち父、子、聖霊を、神聖な美徳と共に経験し享受するためです。第十三章十四節では、主の恵みが最初に述べられています。なぜなら、この書はキリストの恵みに関するものであるからです(一・十二、四・十五、六:一、八・一、九、九・八、十四、十二・九)。
愛、恵み、交わりという三つの美徳から成るそのような神聖な特質と、父、子、霊という三つの神聖な実質から成るそのような三一の神を、信者たちは必要とします。それは、彼らが神聖な三一の神聖な分与を経験するためです。この節は、神たる方の三一は、組織神学上の理解のためではなく、実はその三一の中の神ご自身を、彼の選びまた贖った人々の中へと分与するためであることの強い証拠です。
(ウィットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(下), 292-294)
いわゆるクリスチャンの礼拝では、第十三章十四節を礼拝の終わりに祝祷として用いるのが普通です。しかしながら、この節は、三一の神のわたしたちの享受について語っているのです。あなたはキリストの恵みと神の愛と聖霊の交わりを享受していますか? 神聖な三一の神聖な分与の中で、主の恵み、神の愛、聖霊の交わりは、わたしたちの経験と享受のためです。
神の愛が神ご自身であるように、キリストの恵みはキリストご自身であることを、わたしたちは指摘しました。新約は、「神は愛である」と言っています(Iヨハネ四・八)。わたしたちはまた、キリストは恵みであり、聖霊は交わりであると言うこともできます。もしわたしたちが神を持たなかったなら、わたしたちは愛の享受を持つことはできませんでした。もしキリストを持たなかったなら、わたしたちは恵みの享受を持つことができませんでした。もしその霊を持たなかったなら、わたしたちは交わりの享受を持つことはできませんでした。
わたしたちはまた第十三章十四節で、愛、恵み、交わりは三つの別々の事柄ではないという事実に印象づけられる必要があります。むしろそれは、一つの事の三つの面です。愛は源であり、恵みはその源の表現であり、交わりは表現の伝達です。源としての愛は、恵みの中で表現されます。またこの恵みは交わりによってわたしたちの中に伝達されます。神の愛はキリストの恵みの源であり、その霊の交わりは神の愛を伴うキリストの恵みの伝達です。こういうわけで、愛、恵み、交わりはすべて、わたしたちの享受のためわたしたちの内側にあります。
(ウィットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(下), 294-295)
(2) 同時に享受する
わたしたちは、愛も恵みも交わりもすべて同時に享受します。わたしたちは最初に愛を享受し、その次に恵みを享受し、最後に交わりを享受すると考えるべきではありません。その霊の交わりを享受すると同時に、わたしたちはまた主イエス・キリストの恵みと神の愛をも持つのです。ちょうど父、子、その霊が三つの神ではなく、ひとりの神の三つの面あるいはパースンであるように、愛と恵みと交わりは一つのものの三つの面です。三一の神は、愛に満ちた父、恵みに満ちた御子、交わりに満ちたその霊です。
わたしたちは、御父の愛、御子の恵み、その霊の交わりを順番に享受すると思うべきではありません。そうではありません。わたしたちは、神の愛、キリストの恵み、その霊の交わりを同時に享受するのです。
わたしたちは愛と恵みと交わりを同時に享受しますが、それにもかかわらずわたしたちはやはり愛は源であり、恵みは経路であり、交わりは目的地であると指摘してもよいでしょう。あなたは、わたしたちの目的地が何であるか知っていますか? それは聖霊の交わりです。ハレルヤ、わたしたちは三一の神と、愛、恵み、交わりという三つの面における彼の美徳を享受します!
(ウィットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(下),295-296)
祈りを通して三一の神と共にとどまる
三一の神を享受したいなら、わたしたちは祈りにもっと多くの時間を費やす必要があります。しかしながら、わたしたちはそんなにも多くの事柄を神に求めるという意味で祈るべきではありません。むしろわたしたちは神と共にとどまるという意味で祈るべきです。わたしたちは、神は燃える火であると言ってよいでしょう。祈りによって火である彼の中にとどまり、この火に神ご自身の何かをもってわたしたちの存在の中へと燃やしていただくべきです。
祈りを通して父と共にとどまるなら、わたしたちは神の愛だけではなく、キリストの恵みをも経験するでしょう。わたしたちはわたしたちの享受のために主の恵みの豊富を持ちますが、この恵みは満ちあふれ、富ませて、わたしたちの経験において、わたしたちに十分であるでしょう。この恵みは特にキリストを他の人たちに供給し分与する上でわたしたちを資格づけ、十分にします。この資格づけはわたしたちの内側で満ちあふれ、富ませる恵みから来ます。
わたしたちが愛の父と共にとどまり、主の満ちあふれる恵みを享受する時、わたしたちはまた聖霊の交わりの中にあります。実はわたしたちは流れる霊と合併するのです。わたしたちは内側深くで何かがわたしたちの中を流れていると感じますし、聖霊がわたしたちの中を流れているとさえ感じるでしょう。これは聖霊の交わりの享受であり、わたしたちの存在の中への三一の神の分与でもあります。
(ウィットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(下), 300-301)
日々わたしたちは源なる父と共にもっと多くの時間を過ごす必要があります。わたしたちは源にとどまるために祈る必要があります。今日この源はわたしたちの霊の中にあります。わたしたちが一定の時間、わたしたちの霊の中で父なる神と共にとどまるなら、神聖な分与を経験するでしょう。源なる父と共にとどまる時、わたしたちの祈りが彼からそらすようであってはなりません。わたしたちの祈りがそらしていることがわかったなら、そのような祈りは続けるべきではありません。わたしたちが必要とするのは、わたしたちを源なる父と共にとどまらせる祈りです。
同じように、わたしたちは御言を読むことによってさえもそらされるべきではありません。もし御言を読むことが主ご自身からわたしたちを離れさせていることがわかったなら、わたしたちは再び霊に戻って、「主よ、あなたを賛美します。わたしがあなたと共にいることは何とよいことでしょう!」という必要があります。
わたしたちは宗教的な方法で主に祈るべきではありません。むしろわたしたちは親しい人たちに語りかけるように親密に彼に話しかけるべきです。わたしはあなたがたが主のもとへ行って親友として彼に話しかけることを勧めます。四福音書に記録されているように、主が弟子たちと共におられた時、彼らは宗教的な方法で彼に祈ったという様子はありません。弟子たちは友人に語っているかのように彼に祈りました。彼らは宗教的な祈りや宗教的な礼拝をささげませんでした。わたしたちはこのような祈り、わたしたちを主の臨在の中に保つ命を必要とします。
実は主の臨在の中にいることについて語ることよりも、むしろわたしたちが主と一つであるべきであると言いたいのです。わたしたちは単に主の臨在の中にいるだけではありません。わたしたちは彼との一の中にいるのです。親密に主に語ることがわたしたちをこの一の中に保ちます。
もしわたしたちがこのように主に語ることを日々訓練するなら、神聖な香のかおりはわたしたちに浸透し、塗り油はわたしたちを油塗り、また証印を押し、その霊の「インク」はわたしたちを浸し、神聖な光はわたしたちを照らすでしょう。その結果、わたしたちは三一の神で完全に浸透されるでしょう。そして、わたしたしは父の愛と子の恵みと聖霊の交わりを享受するでしょう。これが今日わたしたちの必要とするものです。
(ウィットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(下), 301-302)
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