三一の神・目次>第五章 本質上の三一とエコノミー上の三一
1.本質における三一の神
「本質における三一の神」についての内容は、第一章の1.神は唯一である と、第二章の4.三すべては永遠に相互内在しており、三人の分離した神ではない を参照してください。
2. エコノミーにおける三一の神
A. 御父の選びと定め — 神の永遠のご計画
エペソ1:3 ほむべきかな.わたしたちの主イエス・キリストの神また父.この方はキリストの中で、天上にある霊のあらゆる祝福をもって、わたしたちを祝福してくださいました.
エペソ1:4 すなわち、この方は、愛の中で、御前に聖く傷のない者になるようにと、この世の基が置かれる前から、キリストの中でわたしたちを選び、
エペソ1:5 みこころの大いなる喜びにしたがい、イエス・キリストを通して、わたしたちを子たる身分へと、彼ご自身へあらかじめ定められました.
エペソ1:6 それは、愛する者の中で、神がわたしたちを恵まれた彼の恵みの栄光の賛美となるためです.
神聖な三一の分与のために、御父はまずわたしたちを選ばれました。わたしたちは生まれる前からだけでなく、この世の基が置かれる前にさえ、選ばれました(四節)。永遠において時間が始まる前に、父なる神はわたしたちを選ばれました。それから彼はわたしたちをあらかじめ定め、わたしたちの運命を決定しました(五節)。彼はこの運命を、前もって決定されました。ですから、それはあらかじめ定めることです。神はその選びに続いて、わたしたちを子たる身分へとあらかじめ定められました(五節)。これが意味することは、彼が前もって運命づけたのは、わたしたちが彼の子たちとなるためであるということです。
子たる身分は、命の分与の問題です。もし父親が多くの子たちを持っているとしたら、これは彼が多くの命を分与したことを意味します。神は、ただ一人の人アダムを、人類の先祖として創造されました。しかし、アダムの子孫は何十億という数に達しています。人としてわたしたちは、命の分与によってここにいます。同様に、キリストの肢体としてわたしたちは、神の命の分与によってここにいます。
ある人は、「命の分与」という用語は聖書に見いだされないと言うかもしれません。それは正しいです。三一という語もやはり聖書にはありません。それにもかかわらず、聖書の中には三一の事実があるのです。事実を語るためには、用語が必要です。こういうわけで、三一という語が、唯一の神の三一の神格を表すために造り出されました。同様に、わたしたちが聖書を読んで、神がこの世の基を置かれる前からわたしたちを子たる身分へとあらかじめ定められたことを見る時、わたしたちは子たる身分の適切な定義を必要とします。わたしたちは、子たる身分が命の分与を含むことを見てきました。わたしたちは、命において豊かな大いなる御父を持っています。彼の容量は宇宙大です。彼は分与するための多量の命を持っておられます。神がどれだけ多くの子たちを生み出されたか、だれもわかりません。このように生み出すすべての事において、彼はその命をご自分の子たちの中へと分与されました。わたしたちは、多くの命を分与してくださった大いなる御父を持っています。
(ウイットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(上), 241-242)
今やあなたは、なぜわたしがエペソ人への手紙第一章には神聖な分与があると言うのか、理解することができます。そこに分与があるのは、そこに子たる身分があるからです。子たる身分は一つの偉大な事柄です。わたしたちの運命は子たる身分です。わたしたちが子たる身分へとあらかじめ定められたことのゆえに、主を賛美します! わたしたちが子たる身分へとあらかじめ定められたのは、みこころの大いなる喜びにしたがい、イエス・キリストを通してです(五節)。
子たる身分は、「彼の恵みの栄光の賛美」という結果になります(六節)。神の恵みは栄光を持っています。そして栄光は表現を意味します。例えば、電気が隠されている時は、光がありません。電気が輝く時、それは表現されます。この輝きが電気の栄光です。同様に、神の恵みには栄光があります。この栄光は子たる身分です。あなたは、地球全体が神の多くの子たちを伴う神聖な子たる身分で満ちていることを認識していますか?
最近、わたしは二枚の地図を買って、居間に置きました。そして召会のある場所ごとにピンを押しました。何と栄光な光景でしょう! 諸召会とは何でしょうか? それらは、神のすべての子たちの総合計、集大成です。これが子たる身分です。子たる身分は栄光です。こういうわけで、子たる身分は神の恵みの栄光の賛美となるのです。これは子たる身分の栄光です。
かつてわたしたちはみな罪人であり、まき散らされていました。しかし、今や命の分与を通して、わたしたちは集められています。わたしたちの御父は、わたしたちすべての中に彼の命を分与して、わたしたちを生んでくださいました。今やわたしたちすべては、わたしたちのひとりの父によってわたしたちの中へと分与された神聖な命を持っています。この分与された神聖な命は、わたしたちを結合させる要因です。わたしたちはみな子たる身分の中にいます。これは彼の恵みに対する栄光です。これが御父の分与です。
(ウイットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(上), 242-243)
B. 御子の贖い — 神の永遠のご計画の成就
エペソ1:7 その愛する者の中で、わたしたちは彼の血を通しての贖い、すなわち違犯の赦しを受けています.これは、神の恵みの豊富によります.
エペソ1:8 この恵みを、神はすべての知恵と思慮の中で、わたしたちにあふれるばかりに及ぼし、
エペソ1:9 みこころの奥義をわたしたちに知らせてくださいました.これは、神がご自身の中で計画された彼の大いなる喜びによるもので、
エペソ1:11 その方の中で、わたしたちも嗣業として定められ、みこころの熟慮にしたがってすべての事柄を行なう方の目的により、あらかじめ定められていたのです.
エペソ1:12 それは、キリストの中で、最初に望みを持っていたわたしたちが、彼の栄光の賛美となるためです。
御父の選びと定めは、神のご計画のためです。今やわたしたちは御子の贖いに来ます。それは御父のご計画の成就のためです。伝統的な神学によれば、御父は御父であり、御子は御子であり、その霊はその霊であり、三つの区別のある分離したパースンです。もしこうだとしたら、御子が来られた時、御父は天にとどまっておられたでしょう。しかし、ヨハネによる福音書を注意深く読むと、御子が来られた時、彼は御父と共に来られたことを見ることができます(ヨハネ八・二九、十六・三二)。御子はご自分の名において来られたのではなく、御父の名において来られました(ヨハネ五・四三)。またイザヤ書第九章六節では、御子は永遠の父とさえ呼ばれています。御子は御父のわざを行なわれました(ヨハネ五・十七、十九)。御子は御父のみこころを行なわれました(ヨハネ五・三〇、六・三八)、御子は御父の言葉を語られました(ヨハネ三・三四前半、十四・二四、七・十六–十七、十二・四九–五〇)。御子は御父の栄光を求めました(ヨハネ七・十八)。御子は御父を表現されました(ヨハネ十四・七–九)。これらの節から見ることができますが、何ものも御子からではありませんでもた。すべてのものが御父からでした。これは、御子が来られた時、御父が来られたことを意味します。御子と御父は一です(ヨハネ十・三〇、十七・二二)。御子は御父の中におられ、御父は御子の中におられました(ヨハネ十四・十–十一、十七・二一)。御子が語られた時、御父が働かれました。御子はご自身の血を通して、また神の恵みのもろもろの豊富にしたがって、贖いを成就されました(エペソ一・七–九前半)。
神の永遠のご計画を成就するための御子の贖いは、「時代の満了時のエコノミー[経綸]へ至るためです。すなわち、キリストの中で……すべてのものを、彼の中でかしらにつり上げようとされたのです」(エペソ一・十)。すべてのものを御子の中でかしらにつり上げるとは、どういう意味でしょぅか? わたしたちは人の体を例証として用いてもよいでしょう。わたしたちが生きている限り、わたしたちの足、すね、手を含むわたしたちの肢体は、みなかしらにつり上げられています。しかし、もしわたしたちが死ぬなら、各肢体はばらばらになるでしょう。これは、かしらにつり上げることが命の結合にかかっていることを示しています。わたしたちの体の命は、すべての肢体がかしらにつり上げられる手段です。命がなくなる時、もはやかしらへつり上げられることもありません。
神はアダムを創造された後、彼を命の木の前に置かれました。しかし、アダムは他の木、すなわち死の木にあずかりました(創三・六)。その時、死が人の中に入り込みました。人は被造物全体の代表であったので、彼の死はすべての被造物にかしらへのつり上げを失わせ、ばらばらにさせてしまいました。
御子の贖いを通して、神聖な命が彼の信者たちの中へと分与されました。彼の中へと分与されたこの命は、彼らすべてを結合させます。かしらなるキリストは、この結合する命をもってすべての信者をこのようにつり上げます。このかしらへのつり上げが、召会生活です。しかしながら、多くの信者たちは依然として旧創造の中に生きているため、彼らはばらばらです。彼らには一もなければ、結合もありません。それは、彼らにかしらへのつり上げがないことを意味します。わたしたちは、どのようにして神聖な命によって生きるかを学ばなければなりません。この神聖な命によって生きる限り、わたしたちは結合されています。この結合する命は、かしらなるキリストによって、わたしたちを一つの召会生活へとつり上げるために用いられます。召会のこのかしらへのつり上げは、拡大し続けて、新天新地の時にまで至ります。その時になると新エルサレムがあります。それは神の最終的なかしらへのつり上げの中心となります。その時には、時代の満了時の経綸があります。ここでの経綸は、案配または管理を意味します。永遠においては、天にあるもの地にあるもの、すべてのものが、キリストの中で、召会を通してかしらにつり上げられるでしょう。
今日、多くのクリスチャンがかしらにつり上げられていないのは、神聖な命の分与に不足しているからです。こういうわけで、主の回復における今日のわたしたちの負担は、単に教理を教えることではなく、神聖な命を分与することです。この命の分与を通して、地球上の多くの国々の聖徒たちは一つになります。何がこの一をもたらしたのでしょうか? 命の分与です。命の分与がわたしたちをかしらにつり上げるのです。これがキリストの贖いの結果です。キリストの贖いはわたしたちの罪を取り去ります。それによって、死は飲み尽くされ、すべての肢体は命の分与を通してかしらにつり上げられるのです。
キリストにあって、わたしたちはまた嗣業とされました(エペソ一・十一)。さらにまた、神の永遠のご計画を成就するための御子の贖いは、神の栄光の賛美となるためです(十二節)。六節における御父の分与の後、パウロは「彼の恵みの栄光の賛美となるため」と言っています。それから御子の分与の後、パウロは、「彼の栄光の賛美となるため」と言っています。
(ウイットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(上), 243-247)
C. その霊の証印を押すことと担保を入れること — 神の成就されたご計画の適用
エペソ1:13 そのキリストの中で、あなたがたも真理の言、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またその方を信じて、約束の聖霊で証印を押されました.
エペソ1:14 この聖霊は、わたしたちの嗣業の担保であって、獲得された所有の民の贖いをもたらし、彼の栄光の賛美となるためです。
その霊の分与は、彼が証印を押して、「獲得された所有の民の贖いをもたらし、彼の栄光の賛美となるため」です(十四節)。聖霊の証印は生きています。それはわたしたちの内側で働き、神の要素をもってわたしたちに浸透し、わたしたちを造り変えます。ついには、わたしたちが神の命において円熟し、最終的にわたしたちの体さえも完全に贖われるのです。
神はその霊をもってわたしたちに証印を押します。このように証印を押すことを、ゴムのスタンプと一枚の白い用紙で例証してもよいでしょう。その白い用紙にスタンプを押すことによって、わたしたちはその紙の上にインクを分与します。その紙に何度も何度もスタンプを押すなら、ついにそれはインクで浸透され、浸し込まれるでしょう。
子たる身分が命の分与の問題であるだけでなく、その霊の証印を押すこともまた命の分与とかかわりがあります。来る日も来る日も、その霊はわたしたちに証印を押し続けています。あなたは罪人であったとき、汚れた一枚の紙のようでした。しかしある日、あなたは神へと悔い改め、主の名を呼びました。彼の血はあなたを洗い、あなたを清め、あなたをきれいな一枚の白い紙のようにしました。その時、その霊はあなたに証印を押しました。
わたしたちは、わたしたちに証印を押したその霊がだれであるかを、知る必要があります。御子が来られた時、彼は御父と共に来られました。その霊が来られた時、彼は御子と御父と共に来られました。ですから、その霊は三一の神の完成です。その霊は、実はわたしたちに対する御子と御父の適用です。ゴムのスタンプは、紙に対するインクの適用です。紙の上にスタンプを押す時、インクが紙に加えられます。その霊は、三一の神の完成であり、またわたしたちに三一の神が届くことです。彼がわたしたちに証印を押す時、三一の神すべてがわたしたちに届きます。その霊はわたしたちに届くだけでなく、わたしたちに結び付けられます(IIコリント一・二一)。届くことは、彼が結び付けられることです。結び付けられることは、彼の分与でもあります。三一の神はわたしたちの中に分与されました。彼はわたしたちに届きました。そして彼はわたしたちに結び付けられました。神聖な証印、三一の神の命の分与は、いつもわたしたちの内側で起こっています。
その霊の証印を押すことは、獲得された所有の民の贖いをもたらします(一・十三後半、十四後半)。ある訳は、「…・まで」と言っていますが、「…・をもたらし」のほうがさらに意味深いです。なぜなら、それは「…・という結果になる」を意味するからです。わたしたちは神の所有として神によって獲得されました。彼がわたしたちを獲得されたその日から、彼は三一の神をわたしたちに浸透させるために、証印を押し始められました。わたしたちは神の証印を一つのしるしとしてわたしたちの上に持っていると言うだけでは、あまりにも客観的です。わたしたちは証印を持っているだけでなく、わたしたちの全存在に神の要素を浸透させるための証印を押すことも持っているのです。わたしたちの体はまだ贖われていません。それは依然として天然の存在です。しかし、わたしたちの内側では、聖霊が証印を押しており、浸透しています。この証印を押すことは、わたしたちの体が完全に浸透される日まで続きます。それはわたしたちの体の贖い、神の獲得された所有の民の贖いとなります。今や神の獲得された所有の民として、わたしたちは依然として、証印を押すことの下にあります。
その霊はまたわたしたちの神聖な嗣業の担保、前味わいでもあり、わたしたちの永遠の嗣業としての神の全き味わいを保証します(十四節前半)。「担保」というこの言葉は非常に意味深いです。それは手付金、保証金、保証、前味わいを意味します。古代の慣例によると、人が一区画の土地を買った時、担保のための見本として、売り手は彼に一袋の土を与えたのでした。その土は、買い手が同じ土の土地を手に入れることの保証でした。これは、証印を押す霊がわたしたちに証印を押した後、わたしたちの嗣業である神の前味わいとなるため、わたしたちの内側にとどまっておられるという事実の例証です。
わたしたちか主イエスを信じた時、二つの事が起こりました。まずわたしたちは、わたしたちの上に神の証印を押され、神の嗣業、神の所有の民となりました。神は、わたしたちが神の所有として神に属することのしるしとして、その霊をもってわたしたちに証印を押されました。同時に、神はわたしたちの所有となりました。神はわたしたちの分、また享受となりました。証印を押す霊は、わたしたちが神の所有であることのしるしです。証印を押す霊はまた、わたしたちの嗣業である神そのものの担保、前味わいともなります。この前味わいは、ある日わたしたちがその全き味わいを享受することの保証、約束です。
証印を押すことと担保を入れることは、いずれも命の分与です。毎日その霊はわたしたちに証印を押しておられ、わたしたちの前味わいとして彼ご自身をわたしたちの存在の中に担保として入れておられます。担保を入れることのこの前味わいは、全き味わいの保証です。三一の神はわたしたちに証印を押しておられ、またわたしたちの存在の中に彼ご自身を担保として入れておられます。これがその霊の分与です。
十四節の終わりに再び「彼の栄光の賛美となるため」という句があります。この句は三回使われています。第一は六節で、御父の分与のためであり、第二は十二節で、御子の分与のためであり、第三は十四節で、その霊の分与のためです。このように神の栄光の賛美が三重に述べられていることは、三一の神の三重の分与を象徴しています。
(ウイットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(上), 247-250)
3. 神のエコノミーは彼の本質(命と存在)をわたしたちの中に分与する
ヨハネ福5:30 わたしは自分からは何も行なうことができない.わたしは聞くとおりに裁く.そしてわたしの裁きは正しい.なぜなら、わたしは自分の意志を求めないで、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからである。
ヨハネ福7:29 わたしはその方を知っている.わたしは彼から来ており、彼がわたしを遣わされたからである」。
ヨハネ福16:27 なぜなら、あなたがたがわたしを愛し、わたしが神から出て来たことを信じたので、父ご自身が、あなたがたを愛されるからである。
源、開始者としての御父
御父はまさに源、開始者です。なぜなら、御子は彼から来たからです(ヨハネ七・二九、十六・二七後半)。ヨハネによる福音書第十六章二七節で主イエスは、「あなたがたがわたしを愛し、わたしが神から出て来たことを信じた」と言われました。それは、「わたしが神から来た」と言っているだけではなく、「わたしが神から出て来た」と言っています。御子は源から出て来ました。その源は御父でした。ですから、御父は源であり、彼は開始者です。彼は開始、起源でさえあります。全宇宙は、神聖なパースンであるこの開始において、開始されました。
(ウイットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(上), 172-173)
ヨハネ福1:18 いまだかつて、神を見た者はいない.父の懐におられるひとり子、この方だけが、父を明らかに示されたのである。
コロサイ1:15 御子は、見えない神のかたちであり、全被造物の中で最初に生まれた方です.
ヘブル1:3 御子は1神の栄光の輝きであり、神の本質の明確なかたちであって、彼の力ある言葉によって、万物を維持し担っておられます.そして、罪のきよめを成し終えてから、高き所の威光ある方の右に座られました.
1:3ノート1 神の栄光の輝きとは、太陽の光の照射、輝きのようなものです。御子は御父の栄光の照射、輝きです。これは神の栄光のことを言っています。神の本質の明確なかたちとは、証印の押し印のようなものです。御子は、父なる神が何であるかの表現です。これは、神の本質のことを言っています。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)
表現、成就する方としての御子
御父は源であり、御子は表現、成就する方です(ヨハネ一・十八、へブル一・三)。源と表現は、二つの事ではなく、二つの面を持った一つの事です。それには源の面と表現の面があります。源としての御父は開始者です。彼は、計画することを含めてすべての事を開始されました。表現としての御子は、成就する方です。御父が計画されたことは何であれ、御子が成就しました。ですから、御子は成就する方です。
(ウイットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(上), 188)
ヨハネ福14:17 それは実際の霊である.世はその方を受けることができない.それは、世が彼を見ないし、知りもしないからである.しかし、あなたがたは彼を知っている.彼はあなたがたと共に住んでおり、あなたがたの中におられるようになるからである。
ヨハネ福20:22 彼はこう言って、彼らの中に息を吹き込んで言われた、「聖霊を受けよ。
入って来ること、適用する方としてのその霊
御父は源、開始者です。御子は表現、成就する方です。その霊は、入って来ること、適用する方です(ヨハネ十四・十七)。御父は御子を遣わされました(ヨハネ八・二九)。そして御子は御父と共に来られました(ヨハネ十六・三二)。御子はその霊を遣わしました(ヨハネ十六・七)。そしてその霊は、御子の名の中で(ヨハネ十四・二六)、御父から、御父と共に来られました(ヨハネ十五・二六)。これによってあなたは、御父はご自身だけではわたしたちに届くことができませんし、御子もご自身だけではわたしたちの中に入ることができないのを見ることができます。御父は近づくことができない方です。(Iテモテ六・十六)。しかし、御子は私たちの間に幕屋を張るために来られました(ヨハネ一・十四)。しかし、依然として彼はわたしたちの中に入ることができませんでした。なぜなら、彼は血と肉であられたからです。身体を持つ人として、彼は弟子たちの間にいることはできましたが、彼らの内側に入ることはできませんでした。ですから彼は、自分は死んで復活しなければならないと、弟子たちに告げました。彼の死と復活によって、彼のかたちは物質的なかたちから霊のかたちへと変えられました。彼は弟子たちの中に入ることができる霊なるキリストになられました(ヨハネ二〇・二二)。これが三の神が届くことです。
三の神が彼の贖われた民に届くとき、彼はその霊です。例えば、電気については、発電所とあなたの家に電気を引くこととの両方があります。発電所があるだけでは実際的ではありません。電気があなたの家に引かれる時はじめて、電気はあなたの日常生活で実際的になります。あなたは建物です。そして神は天にある源、発電所です。その霊、三の神の到達は、あなたの存在の中に据えられました。その霊があなたの存在の中に入って来る時、彼は御父と御子を遠く天のかなたに置いて、やって来るのではありません。これは間違った観念です。その霊があなたの中に入って来られる時、彼は御子と御父の両者と共に来られるのです。もしあなたがその霊を持つなら、あなたは御子を持ちます。もしあなたが御子を持つなら、あなたはまた御父をも持っているのです。あなたは三をすべて持っています。御父においてあなたは愛を味わいます。御子においてあなたは恵みを享受します。その霊においてあなたは神聖な命の交流、交わり、流れにあずかります。愛は源であり、恵みは享受であり、その霊は交流です(IIコリント十三・十四)。これが三一の神の分与です。
若かったころ、わたしは人々に、クリスチャンであることはまず第一に神を畏れることであると教えました。あなたは神に対する聖なる畏れを持たなければなりません。第二に、あなたは主イエスを愛さなければなりません。第三に、あなたは奮闘して自分自身を改善して、良い人にならなければなりません。すなわち、良い夫、良い妻、良い子供、良い父親、良い母親、良い隣人、良い学生などにならなければなりません。しかし、今わたしはあなたに告げたいのですが、クリスチャンとは、御父、御子、その霊の命を生きる人です。良い振る舞いの命を生きる人ではありません。今日この三一の神のあなたへの到達こそ、すべてを含む命を与える霊です(Iコリント十五・四五後半)。彼はその霊です(IIコリント三・十七)。その霊が来られるとき、彼は御子の名の中で来られます。そして彼は御子と共に、また御父と共に来られます。ですから、この到達する霊を持つとき、あなたは御子を持ちます。御子があなたに来るとき、彼は御父の名の中で来ます。そして彼は御父と共に来られます。あなたは御子を持つとき、あなたは御父を持っています。今やあなたの中には、三すべてが一として生きており、あなたの命、あなたの命の供給、あなたのあらゆるものとなっています。クリスチャンとしてあなたは良い振る舞いを心がける必要はありません。そのことを忘れてしまいなさい!あなたは、あなたの内側の三一の神に徹底的に、絶対的に注意を払わなければなりません。彼はとても実際的です。
あなたは「主イエスよ」と呼ぶ時、慰め、光、幸福、平和、安らぎ、非常に多くの心地よい感覚を持ちませんか?もしあなたがアブラハム・リンカーンやジョーソ・ワシントンを呼んだとしても、何も起こりません。しかし、「主イエスよ!わたしはあなたを愛します!」と呼ぶとき、彼もまたあなたを愛しておられることと、彼があなたの中に生きておられることの深い感覚を持ちます。これは迷信ではありません。これは一つの事実です。その霊は三一の神の実際です。この到達する霊があなたの中におられるとき、神全体があなたの中におられます。
真のクリスチャンとは、この実際の命、三一の神の命、すなわち御父、御子、その霊の命を生きる人にほかなりません。三一の神の命を生きることは、まさに三一の神と一であることを意味します。彼が動かれるとき、あなたは動きます。彼が語られるとき、あなたは語ります。彼がとどまられる時、あなたはとどまります。それは倫理の問題や、罪やこの世に打ち勝とうとする問題ではありません。あなたはただ彼に注意を払う必要があります。あなたはただ三一の神の命を生きるだけです。もしあなたがそのような命を生きるなら、この世は裁かれ、悪魔は逃げ、すべての罪深い事柄は打ち破られます。三一の神はあなたの命、あなたの生活、あなたの勝利、あなたの聖潔、あなたの義、あなたの愛、あなたの命、あなたの光となられます。これは、人よりはるかに高い神聖な倫理を持つ真のクリスチャンです。あなたは三一の神の命を生きる必要があります。その霊は、三一の神が入ってくることであり、また三一の神を適用する方です。わたしたちの神は源だけではなく、また表現だけでもなく、入って来ることでもあるのです。彼はわたしたちの存在の中に入って来られました。
(ウイットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(上), 208-212)
始まりのない永遠において、父なる神はご自身の願いにしたがって計画されました。時間の中で、子なる神はそれを達成されます。彼はまず創造を達成しました。創造の後、人が堕落した時、彼は人と成って、堕落した人を贖いました。消極面では、彼は死なれて、人を贖いました。積極面では、彼は死人の中から復活して、命を解き放ち、父なる神のために多くの子たちを生み出し、こうして父なる神のご計画を達成しました。彼の死と復活の後、彼は命を与える霊と成りました(Iコリント十五・四五)。そして、そのような方として、わたしたちの霊の中に入ってきて、三一の神すべてをわたしたちの中にもたらし、わたしたちと結合させるだけでなく、わたしたちとミングリングさせて、一としました。この時になって、この神はとても奥義的であり、とても全体的であり、とても満ち満ちています。今日、わたしたちは福音を宣べ伝える時、人はこのような神を必要とすることを告げるのです。人は彼を、救い主、命、すべてとして必要とします。人が信じる時、わたしたちは彼らをこの三一の神の中へとバブテスマします。ですから、父、子、霊という事柄があるのです。
(ウイットネス・リー, 三一の神 すなわち、父、子、霊に関して, 18)
神のエコノミーの段階
わたしたちは、神の目的と神によって分け与えられるものとを見てきました。今わたしたちは、神がご自身のエコノミーによってどのように分け与えられるかを認識しなければなりません。霊こそ神が人に分け与えるものですが、今わたしたちは、神がこの事をなさる方法を見る必要があります。それは三一の神によります。三一の神 —御父、御子、聖霊— は、神たる方のエコノミーそのものです。過去何世紀もの間、キリスト教には三一の神について多くの教えがありました。しかしながら、三一の神は、それが神のエコノミーとかかわりを持たない限り、決して十分に理解されるはずがないのです。なぜ神格の三つのパースンすべてが、神のエコノミーの発展のために必要なのでしょうか? わたしたちは、御父、御子、聖霊は三つの異なる神ではなく、一つの神であり、三つのパースンとして現されているということを知っています。ところが、神格に三つのパースンがあるのは何のためでしょうか? なぜ父なる神と子なる神と聖霊なる神がおられるのでしょうか? なぜなら、三一の神による以外に、神の霊をわたしたちの中に分け与える方法がないからです。
コリント人への第二の手紙第十三章十四節には、三一の神による神のエコノミーの段階が示されています。「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にありますように」。ここには御子の恵みと、御父の愛と、聖霊の交わりがあります。これらはどういうものでしょうか? これらは三つの異なる神々でしょうか? 愛や恵みや交わりは三つの別々のものなのでしょうか? そうではありません。愛と恵みと交わりは、三つの段階を持つ一つの要素です。愛は源であり、恵みは愛の表現であり、交わりは恵みにあってこの愛が伝えられることです。同様に、神とキリストと聖霊は、三つのパースンで表現される一人の神です。神は源であり、キリストは神の表現であり、聖霊はキリストにあって神を人の中にもたらす伝達です。このように、三一の神の三つのパースンは、神のエコノミーの過程における三つの継続的な段階となるのです。これら三段階がなければ、神の本質は決して人に分け与えられなかったのでした。神のエコノミーは、御父から出て、御子の中で、聖霊を通して、発展するのです。
御父から
父なる神はあらゆるものの宇宙的な源です。神は見えない方で、また近づきがたい方です。近づきがたい光の中に住んでおられる父なる神が(Iテモテ六・十六)、どのようにしてわたしたちの中に住むことができるのでしょうか? どのようにしてわたしたちは見えない父を見ることができるのでしょうか? もし神がただ父だけであられるなら、神は近づきがたく、また人の中に分け与えられはしなかったでしょう。しかしながら、神のエコノミーの神聖な按配により、神はご自身を人に得させるために、三一の第二のパースンである御子の中にご自身を入れられました。父の全豊満は御子の中に住んでおり(コロサイ一・十九、二・九)、御子によって表現されています(ヨハネ一・十八)。御父は、あらゆるものの無尽蔵の源として、御子の中に具体化されています。計り知れない神は、今や神の言(ヨハネ一・一)であるキリストの中に表現され、見えない神は、神のかたちであるキリストの中に啓示されているのです(コロサイ一・十五)。こういうわけで、御子と御父は一つであって(ヨハネ十・三〇)、御子は御父とさえ呼ばれています(イザヤ九・六)。
以前、人が御父に触れることは不可能なことでした。神はもっぱら神であり、神の性質はもっぱら神聖であるだけでした。御父の中には、神と人との間の隔たりをつなぐものは何もありませんでした。しかしながら、今や神は御子の中にご自身を具体化しただけでなく、人の性質をもって肉体の形を取られたのです。御父は、ご自身の神性が御子の中で人性と結合することを喜ばれました。御子の受肉によって、近づきがたい御父は今や人に近づきやすくなっています。このことにより、人は御子によって御父を見、御父に触れ、御父と交わることができるのです。
わたしたちはこの関係を、白いハンカチを青い染色液に浸すことによって示すことができます。御父の神性は、白いハンカチになぞらえることができるでしょう。このハンカチが青い染色液につけられるのは、人性を持つ肉体と成られた御子の中にある御父を表します。白いものが今や青くなっています。ちょうどハンカチに青色が加えられたように、神の性質に人の性質が加えられ、かつては分かれていた性質が一つになっているのです。ですから、神がご自身を人に分け与えるという第一段階は、人である御子の中にご自身を具体化し、受肉されることによるのです。このようにして、人の中にご自身を再生産されます。
御子の中で
神を人の中にもたらす第二段階は、三一の神の第二のパースンである神の御子によります。神のエコノミーの第二段階を理解するためには、わたしたちはキリストとはどういう方であるかを知る必要があります。キリストを構成している要素は何でしょうか?一つに結合してキリストを構成している成分は何でしょうか?
このすばらしい人の中に、御子の経歴によって加えられた七つの基本的な要素が入りました。第一に、キリストは神の神聖な具体化です。キリストにあるこの第一の要素は、神の神聖な本質と性質です。
第二の要素である御子の受肉は、神の性質と人の性質とが混ざり合ったものです。御子の受肉によって、御子は神を人の中にもたらし、神の神聖な本質と人性とを混ざり合わせました。キリストの中には、神だけでなく人もいます。
神と人との性質に加えられた第三の要素は、御子の人性の生活でした。この栄光に満ちた神の人は三十三年半の間、この地上に住んで、日常生活を営む上でだれもが味わうあたりまえの事をすべて経験なさったのです。ヨハネによる福音書は、彼が神の御子であることを強調していますが、また同時に彼が疲れ、空腹となり、渇き、しかも泣かれたということも述べています。人としての苦しみもまた彼の日常生活の一部であり、その日常生活はこの世での多くの困難、問題、試練、迫害を含んでいました。
御子の死の経験が、第四の要素です。彼は死へと下られました。しかしながら、彼は死の中に足を踏み入れただけではなく、死を通り抜けたのでした。このことは、とても効力のある死を生み出しました。アダムの死は恐ろしくて混とんとしたものですが、キリストの死はすばらしく、効力のあるものです。アダムの死はわたしたちを死のとりこにしましたが、キリストの死はわたしたちを死から解放しました。アダムの堕落は、多くの邪悪な成分をわたしたちの中へもたらしましたが、キリストの効力のある死は、わたしたちの内側でアダムの性質の要素すべてを殺す力です。
こういうわけで、キリストには神聖な性質と人の性質があって、その日常生活には苦しみもあれば、彼の死の効力もあるのです。しかしながら、キリストにはさらにもう三つの要素があります。第五の要素は、御子の復活です。御子はその復活の後、人の性質を脱ぎ捨てて、再び神だけになろうとはされませんでした。キリストは今もなお人です! 彼は人として、人性と混ざり合わされた復活の命というもう一つの要素を持っておられます。
キリストにある第六の要素は、御子の昇天です。御子は昇天されたことによって、あらゆる敵、支配、権威、権力、権勢に超越されました。すべてのものは御子の足の下にあります。こういうわけで、御子と混ざり合わされるなら、御子の昇天という超越的な力があります。
最後に、キリストにある第七の要素は、御子の御座です。キリストは神聖な性質を持った人ですが、全宇宙の崇高なかしらとして、第三の天で御座に着いておられます。御子はもろもろの天において、主の主、王の王となっておられます。
こういうわけで、わたしたちはキリストにある七つのすばらしい要素を覚える必要があります。すなわち神の性質と、人の性質と、この地上の苦しみを伴う人性の日常生活と、彼の死の効力と、復活の力と、彼の昇天の超越した力と、御座に着かれたことです。これらすべての要素は、この一人の驚くべきキリストの中に混ざり合わされています。
その霊によって
しかしながら、神は御子を通してわたしたちの中に入ることはできません。神のエコノミーの第一段階によれば、御父はご自身を御子の中に置き、御子はご自身のうちに混ざり合った七つの要素を持っていました。しかし、神がご自身を人の中に分け与えるためには、さらにもう一段階、すなわち第三であり最後でもある段階が必要となります。第一の段階は、御父がご自身を御子の中で具体化することでした。第二の段階は、御子が人の姿となられ、ご自分の内側に混ざり合った七つのすばらしい要素を持つことでした。第三の段階は、御父も御子もその霊の中にあることです。御父の中にあるものはことごとく御子の中にあります。御父も御子も、キリストにあるあらゆる要素を含んでおり、その霊の中にもたらされています。
主の昇天の後、聖霊は旧約時代における神の霊とはもはや同じではありません。旧約における神の霊には、ただ一つの要素、すなわち神聖な性質しかありませんでした。神聖な霊として、人の性質の要素、人性の日常生活の要素、死の効力の要素、復活の要素、昇天の要素、御座に着くことの要素はありませんでした。しかしながら今日、新約エコノミーの下で、キリストの七つの要素はすべてその霊の中に置かれており、そのような方として、このすべてを含む霊はわたしたちの中にやって来て、わたしたちの上に臨んでおられます。言い換えれば、その霊はわたしたちの中におられ、わたしたちはその霊の中にいるのです。これが、神と人との真の混ざり合いであり、わたしたちがいつでも経験できるものです。わたしたちは内側でも外側でも聖霊と混ざり合わされているのです。
聖霊とは何でしょうか? 彼は真理の霊です(ヨハネ十五・二六)。しかしながら、真理とは何でしょうか? 「真理」というギリシャ語の意味は実際です。ですから、聖霊とは実際の霊、すなわちキリストが満ち満ちている実際です。ちょうど、神がキリストの中に具体化されているように、キリストは聖霊というすばらしいパースンの中に実際化されています。キリストは神と分かれたものではなく、その霊もキリストと分かれたものではありません。キリストは表現された神であり、その霊は実際の中で実際化されたキリストです。
「そして主はその霊です」(IIコリント三・十七)。この節は、聖霊はキリストから分離していないことを証明します。主はキリストご自身であり、その霊として述べられています。「最後のアダムは、命を与える霊と成ったのです」(Iコリント十五・四五)。再び聖書は、最後のアダムであるキリストは、その霊であると指摘します。わたしたちは、この命を与える霊は聖霊であると認めなければなりません。
それだけでなく、父なる神も霊です(ヨハネ四・二四)。こういうわけで、神格の三つのパースンすべては霊です。もし父なる神が霊でなければ、どうして彼がわたしたちの中に入ることができるでしょうか? どのようにしてわたしたちは彼と接触することができるでしょうか? さらにまた、もし子なる神が霊でなければ、どのようにして彼はわたしたちの中に入ることができるでしょうか? どのようにしてわたしたちは彼を経験することができるでしょうか? 御父と御子は両方とも霊であるので、わたしたちは容易に神に接触することができ、キリストを経験することができるのです。
次の幾つかの節に注意してください、「神また父は一つ……すべての中におられるのです」(エペソ四・六)。「イエス・キリストがあなたがたの中におられる」(IIコリント十三・五)。「あなたがたの中に住んでいる彼の霊を通して」(ローマ八・十一。これら三つの節は、父なる神、子なる神、霊なる神がわたしたちの中におられることを明らかにしています。それでは、わたしたちの中に、何人のパースンがおられるのでしょうか? 三人でしょうか、それとも一人でしょうか? わたしたちの中には三人の別の人がおられるとも、ただ一人の人がおられるとも言うべきではありません。わたしたちの中には、三一の方がおられると言うべきです。神格の三つのパースンは、三つの霊ではなく、一つの霊です。御父は御子の中におられ、七つのすばらしい要素をすべて持つ御子は、その霊の中におられます。このすばらしい聖霊がわたしたちの中に入られる時、神たる方がわたしたちの中に分け与えられるのです。三つのパースンは一つの霊の中にあるので、わたしたちは御父と御子とその霊をわたしたちの内側に持ちます。後ほどわたしたちは、三一の神がわたしたちの人の霊の中で、霊的な内なる命となることを見ます。このことは、神のエコノミーの目標そのものであり、このようにして神たる方がわたしたちの中に分与されるのです。神聖なエコノミーの目標は、三一の神を一つ霊の中でわたしたちの人の霊の中に分与することです。こういうわけで、今やわたしたちは三一の神によって生きることにわたしたちのすべての注意を集中させなければなりません。三一の神はわたしたちの人の霊の中におられます。もしこのことからそれるなら、他の物事がどれほど良く、どれほど霊的であったとしても、わたしたちは必ず神のエコノミーの目標を見失うことでしょう。主は今日、神の子供たちを神の神聖なエコノミーのこの目標に集中させることによって、彼らを回復しておられるのです。
(ウイットネス・リー, 神の永遠のご計画 — 神のエコノミー, 14-22)
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